鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

天保騒動(甲斐一国騒動) その1 

2017-10-21 10:32:09 | Weblog

 江戸時代の三大飢饉と言えば、「享保の大飢饉」、「天明の大飢饉」、そして「天保の大飢饉」の三つでした。

 「天保の大飢饉」の始まりは、天保4年(1833年)の夏頃からと当時の人々には意識されていたようです。

 このことは『山梨県史資料編13』の「天保騒動」関係の諸史料からも伺い知ることができます。

 たとえば『天保騒動記』では、冒頭部分が「天保四年巳七月頃より誠に御穀類(たぐ)イ直段(値段)高直ニ相成申候」と、天保4年の穀類の高騰の記述から始まっています。

 「穀類」とは、白米・荒麦・大豆・小豆・小麦など。

 『並崎の木枯』にも「天保四巳年」は「秀長弐拾七歳之時不作之事」(「秀長」とは筆者である河原部村平賀源作自身のこと)とあり、この不作による米価高騰に際し、「御勤番頭追手大久保紀伊守様」が「賢才」であって処置がよかったから、「大久保紀伊大明神」の幟(のぼり)が建てられたといったことを記しています。

 この「御勤番頭追手大久保紀伊守」とは、当時、甲府勤番支配であった大久保紀伊守忠学のこと。

 「甲府勤番支配」とは、高禄の旗本から任命された役職で(老中支配)、甲府城の守衛や城米の管理、甲府町方の支配などを担いました。

 つまり甲府城を守衛・管理する役人のトップであるとともに甲府町方支配の役人のトップ。

 甲府勤番支配は二人いて(山手勤番支配と追手勤番支配)、その両支配が月番で業務を行っていました。

 「御勤番頭追手大久保紀伊守」とは、正確には「甲府追手勤番支配」の大久保紀伊守忠学であったでしょう。

 『山梨県史 通史編4』によれば、天保4年時の米価高騰に際しては、甲府追手勤番大久保紀伊守忠学によって救済措置がとられたといい、その内容は①酒造禁止の触②有徳人(うとくにん・富豪)に対して米穀を差し出すように命じる③甲府城の蔵米5000俵を安値で放出する、といったものでした。

 その翌年の天保5年の1月(旧暦)、甲府町方の柳町、山梨郡万力筋の板垣辺りに「大久保紀伊大明神」と記された幟が立ったといわれる、といったことも同書には記されています。

 また同書によると、天保4年12月、甲府城下の困窮者が山田町の札差和泉屋作右衛門らの有徳人に対して施行を要求して捕縛されたものの、甲府町方の有徳人たちによる貧民たちへの施行は行われており、これも甲府追手勤番大久保紀伊守の措置によるものと人々には受け止められていたと推測することができます。

 「天保の大飢饉」は天保4年の不作から始まり、そして天保7、8年にそのピークを迎え、天保9年頃まで、足掛け6年もの間続いた全国的な飢饉であったわけであり、その期間的長さや長期化による被害の深刻さから見れば、江戸時代最大の飢饉であったということができるでしょう。

 『並崎の木枯』の冒頭部分において、天保4年の天候不順による飢饉の時には甲府町方の貧窮民に対して町方行政のトップである甲府勤番支配(大久保紀伊守忠学)によってそれなりの救済措置が講じられ、町方の人々(貧窮民を含む)から肯定的に受け止められていた(「大久保紀伊大明神」の幟が立てられた)とまず記されていることの意味合いは大きい。

 これは天保7年8月の「天保騒動」を振り返った時に、その騒動が発生し拡大していった要因として、当時の甲府勤番支配や甲州を支配する代官たちの措置の不十分さや無能さを暗に指摘するものでもあるからです。

 このような為政者に対する意識は、この『並崎の木枯』をまとめた河原部村の名主平賀源作一人のものではなく、「天保騒動」に加わった人々や参加はしなくてもその大事件に関心を寄せた人々の多くに共通するものであったと考えられます。

 

 続く

 

〇参考文献

・『山梨県史 資料編13 近世6上』(山梨県)

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