鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 赤岡まで その2 

2010-01-31 07:07:44 | Weblog
 北川村柏木の中岡慎太郎の生家(復元されたもの)を見ましたが、ここは慎太郎にとっては義兄である中岡源平が大庄屋として過ごした家でもあり、またその妻(後妻)の絹が暮らした家でもありました。

 源平と先妻お京(慎太郎の次姉)の間には、初太郎という子どもが一人いましたが、この初太郎が8歳の時、継母となったのが絹でした。

 この源平と絹を頼って、魚梁瀬から柏木にやってきて、そこに預けられて柏木の学校に通ったのが山崎保太郎で、この保太郎は、兆民が魚梁瀬を訪ねたその翌年に、若くして初代馬路村村長になっています。

 さて、先ほど触れた、慶応2年(1866年)11月29日の「故郷の義兄と初太郎宛」書簡とは、この中岡源平(妻は絹)と、源平と京の間に生まれた初太郎(甥)に宛てたもの。

 この書状は、おそらく土佐に戻る義兄北川武平次が、慎太郎の写真(祇園で写真茶屋を経営する「大阪屋与兵衛」が撮影したもの)とともに携え、この柏木の中岡家に持ち帰ったものであると思われます。

 『全集』の、その書簡の解説を見てみると、北川武平次は北川村の郷士で居合術の名人でもあったという。この武平次の先妻が、慎太郎の姉(異母姉)の「かつ」であったのですが、この「かつ」は理由があって嘉永5年(1852年)の5月に「柏木巻の深淵に投身自殺」をしているという(慎太郎14歳の時)。

 かつが北川武平次に嫁いだ後のことであるのでしょう。

 この北川武平次は、明治天皇の御前試合で優勝したというが、それがいつ、どこでのことなのかは、この解説だけではわからない。またこの武平次は、明治7年(1874年)3月に土佐に入国した江藤新平の逮捕にも加わっているとのこと。

 北川村の郷士出身であれば、「野根山街道」については当然詳しく、高知から野根山街道などを利用して甲浦(かんのうら)に向かった江藤新平一行を追跡し逮捕するには、居合の達人ということもあって、恰好の人物であったのかも知れない。
 
 江藤新平は、結局、甲浦で捕縛されますが、その時にこの北川武平次がいたのかどうか、どのような行動をとり、どのような役割を果たしたのか、詳細については今のところ私にはわかりませんが、その北川武平次が義弟中岡慎太郎と一緒に京都で写した写真が残っているというのは興味深いことでした。

 柏木の「中岡慎太郎館」の駐車場を出発して、次に向かったのは、奈半利町乙の「浜田家住宅」。

 この「浜田家住宅」は、旧街道沿いにあり、藩政末期に建築されたもの。浜田家は代々の商家で、創業は寛政7年(1795年)。「増田屋」の屋号を持ち、かつては造り酒屋を営み、また質屋も経営していたという。

 かつて「高札場」のあったところから歩き始めましたが、「野根山街道」は、この奈半利の高札場が立っていたところを起点として、野根山連山を尾根伝いに越え、野根に至っていたとのこと。

 浜田家には、「うだつのある家 浜田家住宅(増田屋)」の案内板があり、それによれば、主屋一階平面は海鼠(なまこ)壁で、二階には奈半利ではめずらしいうだつがある、とあります。また、赤レンガ蔵は、寄棟造で桟瓦葺の二階建てであり、阪神へ木材を運び、戻る船のバランスをとるために底にレンガを積んだ、とある。

 船のバランスをとるためのものを「バラスト」といいますが、京阪神へ行く場合は、荷物の木材が同時にバラストの役割を果たし、戻る時には、たとえばこの赤レンガがバラストとなったというのです。そのバラストとして運ばれた赤レンガが、蔵造りや住宅(同じく奈半利の「西尾家住宅」やまた吉良川でも見かけました)に利用されたりしたのです。

 「バラスト」として赤レンガが阪神から運ばれてきたというのが面白い。

 『土佐の民家』の「視点」には、「中でも田野町や奈半利の旧街道は江戸時代の地割りや町並みが残っており、県内でも貴重な町並みである。…歴史と文化を生かした町づくり、それは地域活性化の一つの手段でもある」とありますが、たしかに、街道沿いはもちろん、路地に入っていってみても、立派な「いしぐろ」塀のある古い民家があちこちに点在していました。

 「倉床の家 野村家住宅」は、藩政時代においては、年貢米を集めた地主で「倉床」と呼ばれていましたが、その入口には、曲線を描く石塀(いしぐろ)があり、その石塀の上部の瓦屋根は左右ふき分けになっています。この石塀は明治後期に造られたもの。

 「元奈半利町農協の米蔵 齊藤家住宅」は、昭和13年(1938年)に建てられたもので比較的新しいものですが、これも伝統的な建築様式で造られています。日向に座って、女の子2人がままごと遊びをしていました。明り取り用の窓には鉄製の扉が取り付けられています。

 「江戸時代の旅籠 西尾家住宅」は、主屋は江戸末期の建築で、赤レンガ塀などは大正初期に造られたもの。ここには江藤新平が泊まったといわれている、と案内板にありました。

 この旧街道を東へ歩いて行くと、かつては「送り番所」があり、ここから奈半利を離れて、「朝休み場」→「一里塚」→「白石神社」→「二里塚」→「岩佐関所」へと、野根山街道は続いていたのです。

 次に向かったのが「二十三士公園」。前の日は、夕暮れ時になっており、堤防上の道路から望見しただけでした。

 「二十三士温泉」の駐車場に到着したのは15:58。

 さっそく、「二十三士公園」と記された真新しい標示に従って、奈半利川の河原へと下りて行きました。

 下りて左折すると、遊歩道の突き当たりに大きな石碑が建っているのが目に入りました。その石碑には「二十三士殉節之地」と刻まれていました。四段ばかりの石垣の上にもう一つ段があり、その上に大きな石碑がそびえています。

 右手に円形の低いコンクリート塀で囲まれた、白い四角い石で亀の甲羅状に覆った土盛りがありましたが、何の説明もなく、これが何の施設かわからない。この白い円墳のような施設越しに石碑を見てみると、この白い小さな円墳状のものは、処刑された23名の死体が埋められていた場所であるのかも知れない。

 そう思いながら、あまり人気(ひとけ)もない公園を歩いて見ました。

 公園として整備されるまでは、草ぼうぼうで、夜は怖くて誰も近寄らなかったというのが嘘のように、あたり一面は午後の明るい陽射しを受けていました。

 北川村の中岡源平の妻お絹が、元治元年(1864年)9月5日(旧暦)の黎明、長く掘られた溝の際(きわ)に列座する23名の男たちを前にして座った場所はどこか。深さ・幅とも一間(約1.8m)の長い溝が掘られた場所はどこか。大目付小笠原唯八が座った場所はどこか。首斬役人は何人いたのか。警備の足軽はどれほどいたのか。立会いを求められた人々は、お絹以外にどれほどの人数がいたのか。土手から処刑を見ていた近在近郷の人々はどれほどであったのか。

 等々、いろいろなことを想像してみましたが、それらの場所などを示す案内板や処刑された事情、処刑された者たち(23名)の名前や役職・立場・出身などを記した案内板は、この公園には何もありませんでした。

 「二十三士公園」から「浜口雄幸旧邸」に車で到着したのは16:15。門前には「なすこと能(の) いまだ終ら須(ず) 春を待つ」と刻まれた黒御影石の句碑と胸像がありました。

 浜口雄幸(おさじ)が生まれたのは、実はここではなく、明治3年(1870年)に長岡郡五台山村水口家で生まれています。明治23年(1890年)に田野村の浜口家に入りその長女夏と結婚。この浜口家の先祖が、この付近や奈半利川原の開墾に努めた功績により「郷士」となり、それから「下士」を経て「上士」待遇の「白札格(しらふだかく)」となったのだという。

 この建物は親類筋にあたる人の家であったとのこと。

 奈半利川河原の開墾は、浜口雄幸の妻の実家である浜口家の先祖が関係していたことを、案内板の説明で知りました。

 次に向かったのは、「二十三士」のお墓があるという福田寺。

 国道55号線沿いに「福田寺」はあり、「二十三士墓所」というやはり真新しい案内標示が道沿いに立っていました。

 まず目に飛び込んできたのは、板壁に張り付けてある「二十三士と武市瑞山」と記された白い案内板でした。


 続く


○参考文献
・『中岡慎太郎全集』宮地佐一郎編著(勁草書房)
・『土佐の民家』(高知新聞社)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿