鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

日本民家園「旧広瀬家住宅」について 最終回

2009-06-14 05:54:14 | Weblog
 下小田原の上条という集落の景観を眺めた後、ふたたび青梅街道に出て右折。重川(おもがわ)に架かる小田原橋を渡って塩山市街に入ったところで道を右折。甲州市立塩山図書館へと向かいました。

 塩山図書館には樋口一葉関係の本が集められているという情報は得ていましたが、中に入って奥にある郷土資料コーナーを見てみても、一葉関係の本はまったく見当たりませんでした(後で知ることになりましたが、玄関ロビーに入ってすぐ左手の本棚に一葉関係の本が集められていました)。

 ということで、まず写真集を探し、それから甲州街道関係の本と山梨県の古民家関係の本を探しました。

 写真集は『目で見る韮崎・巨摩の100年』(郷土出版社)、『目で見る甲府の100年』(同)、『写真集山梨100年』(山梨日日新聞社)、『写真で見るふるさと勝沼』(勝沼町)、『目で見る塩山市100年』(塩山市文化協会)など。

 写真集に目を通してみると、昭和20年、30年代までは、農村部においては茅葺き(ないし麦藁〔麦ガラ〕葺き)屋根の農家が一般的であったことがわかります。

 印象的な写真は、『目で見る塩山市100年』のP142の写真で、草葺き屋根をトタン屋根に替える作業を写したもの。撮影されたのは昭和35年(1970年)頃。

 おそらく昭和30年代中頃から、従来の草葺き屋根がどんどん銀色のトタンによって覆われるようになっていったのでしょう。

 「ユイ」という共同作業による、「カヤ」や「麦ガラ」を利用しての屋根の葺き替え作業が難しくなったことや、囲炉裏を使わなくなり、その煙で燻(いぶ)すことがなくなってきたことによる屋根の劣化の深刻化などが、トタン屋根で覆わなければならない事情としてあったと思われます。「茅場」も以前よりずっと狭くなってきており、大量のカヤを採ることが難しくなったということもあるのでしょう。

 次に、山梨県の古民家関係で参考になった本は、坂本高雄さんという方の『山梨の草葺民家』(山梨日日新聞社)という本で、なかなかの「労作」と言える本でした。

 この本によると、「屋根の中央を突き上げ、中二階にした切妻造りの農家」(古江亮仁)の屋根型は、甲府盆地東部における典型的な屋根型であって、「甲州型」ないし「櫓(やぐら)造り」と呼ばれているという。

 この中央に突き出した屋根の部分(櫓)は、養蚕における採光・換気装置として設けられたもので、やはり養蚕が盛んに行われるようになってから茅葺き屋根の部分が改造されて出来たもの。

 江戸時代には見られなかったもので、明治になってから、盛んになった養蚕のため必要に迫られて出来上がった屋根型だということになります。

 この本で、もう一つ興味深かったことは、草葺き屋根の棟がこの甲州盆地やその周辺においても「芝棟」が一般的であって、棟に載せられた土の部分には、イチハツ・アヤメ・ユリ・キボシ・イワヒバ(岩松)などが植えられていたということ。

 特にイチハツについては、「地下に逞しい根茎」「肥大した根」を張り、「ヒデリソウ」の別名を持ち、「本県ではカラショウブと呼んでいる」とあり、さらに、「数十年前頃までは、甲府盆地東部や盆央の屋根棟にもイチハツの花の咲く光景がみられた」といったことが記されていたのです。

 ということは、東海道筋やその周辺の農村部ばかりでなく、甲州街道沿い(甲府盆地の東部や盆地中央部)においても、イチハツの花(それ以外にアヤメやユリなども)が茅葺き屋根の棟に咲く風景が、戦後しばらくまで見られた(銀色トタンで屋根が覆われるようになるまでか)ということになるのです。

 イチハツは、それが棟に植えられる地域を思いのほか広げていた、ということに気付かされたのです。

 この本を読んでいる間に、帰るべき時間が迫ってきて、樋口一葉関係の資料に目を通すのは次の機会にすることにして、駐車場に停めてある車に乗り込み、甲州街道(国道20号線)をひた走って帰途につきました。



○参考文献
・『現代日本の文学Ⅰ 二葉亭四迷 樋口一葉集』(学習研究社)
・『日本民家園収蔵品目録6 旧広瀬家住宅』(川崎市立日本民家園)
・『目で見る塩山市100年』(塩山市文化協会)
・『山梨の草葺民家』坂本高雄(山梨日日新聞社)
・『日本民家園物語』古江亮仁(多摩川新聞社)  


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