鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-笹子峠~甲府まで その18

2017-10-16 07:08:16 | Weblog

 

 「石和温泉駅入口交差点」を直進し国道411号を「韮崎 甲府駅」方面へと進みます。

 「甲運橋東詰」の信号を過ぎて、「第二平等川」に架かる「甲運橋」を渡ります。

 「第二平等川」はゴミがほとんどなく清らかな流れで両岸に遊歩道も設けられています。

 「甲運橋」を渡ると右手の「右 冨士山 大山 東京」「左 甲府 甲運橋 身延」と刻まれた古い石標(道標)があり、よく見ると「東京」の文字は「江戸」という文字の上に重ねて刻まれています。

 もともとは「右 富士山 大山 江戸」であったでしょう。

 富士山や大山へは御坂(みさか)峠を越えていき、江戸へは甲州街道を東へ進んでいくことになります。

 身延へは甲州街道を甲府まで進み、甲府から身延道へ入ります(これが身延参詣への道)。

 この「第二平等川」の流路は、川幅などはかなり異なっているはずですが、かつての(明治40年の大水害以前の)笛吹川の流路と重なっており、そこには「川田(かわだ)の渡し」があって、両岸の津出場(つだしば)は鰍沢(かじかざわ)・黒沢・青柳の富士川三河岸(かし)に年貢米や諸荷物を川船で運送するところでした。

 この石標は「川田の道標」といわれたというから、この「甲運橋」のあるあたりが「川田の渡し」があったところとなりますが、付近は家が建て混んでいてかつての風景を想像するのは困難です。

 次に渡ったのは「平等橋」で、下を流れる細い川は「第一平等川」。

 上流方向には大蔵経寺(だいぞうきょうじ)山がどっしりとした山塊を見せています。

 「平等橋」を渡った右手にあった大きな石碑は「平等川改修記念碑」で、碑文の最初の方に「明治四十年ノ大水害ニ因ル笛吹川河身変更」とあり、その氾濫によって近辺に甚大な被害が生じたことが記されていました。

 明治40年(1907年)8月の山梨県における大水害は、この笛吹川の流路変更を含む諸河川の氾濫によって県内に大きな被害をもたらしたことが、改めてこの碑文からも伺うことができました。

 「平等橋」を過ぎると旧甲州街道(国道411号)はほぼまっすぐに西方向へと延びていき、「川田町」の信号を過ぎてしばらくして「甲府駅6.2km 山梨県庁6.0km」の道路標示が現れました。

 「甲運小学校入口」のバス停の手前に「和戸町」の地名由来が記された案内板があり、それによれば「和戸町」は平安期にこの附近を中心として栄えた表門郷(うわとのごう)の異称であり、古くから集落が発達していたことが知られるという。

 川田町やこの和戸(わど)町のあたりは平安期の昔から水田が開けており、重要な穀倉地帯であったのでしょう。

 この案内板の背後の一画に、丸石が20個以上も密集した「丸石道祖神」がありました。

 「丸石道祖神」には単体の「丸石道祖神」もあれば、このような密集型の「丸石道祖神」もあり、それぞれが今でも独特の存在感を放っています。

 その密集型の「丸石道祖神」の左側には「石棒」のような石造物も二基立っていました。

 「和戸町」の信号(交差点)を過ぎてしばらく歩くと「松原」の信号。

 「甲運松原」のバス停の次のバス停が「山崎」で、その先に「山崎三差路」の信号があり、右手から「青梅街道」(「雁坂道)が甲州街道(国道411)に合流しています。

 その合流点やや先の右手に大きな名号塔がありましたが、このあたりがかつて「山崎の刑場」があったところ。

 青梅街道と甲州街道が交わるところに「刑場」があったことになります。

 山梨学院大学のキャンパスを左手に見て、「酒折宮→」の案内標示のところで右折して細い通りを進んで行くと、石鳥居を潜り中央本線の踏切(宮前踏切)を越えたところに酒折宮が鎮座していました。

 境内には「連歌之碑」や「酒折宮壽詞(さかおりのみやのほぎこと)碑」(「本居宣長碑」)、「酒折祠碑」(「山縣大弐碑」)などがありました。

 ここには甲府城下へ入る前に広重も立ち寄っており、「御神体」や「奉納額」(日本武尊の火打袋に太田蜀山人の句を題したもの)をスケッチしています。

 酒折宮を参拝した広重は、甲府城下柳町で江戸姉弟や市川大門の人たちと別れ、「七つ時分」つまり午後4時頃に「緑町一丁目」の「いせや栄八宅」に到着。

 その伊勢屋栄八方で久しぶりのお風呂に入って旅の疲れを癒し、その後月代(さかやき)を整えています。

 この日より広重はこの緑町一丁目の伊勢屋栄八方に逗留して、甲府道祖神祭の幕絵(まくえ)制作に取り掛かることになりました。

 この酒折宮から戻る途中、右手の木々の繁る斜面に比較的新しい「蚕影山」と刻まれた石造物を見掛けました。

 半ば草木に埋もれていましたが、これは今までに見掛けてきたように、かつてこのあたりでも養蚕が盛んであったことを示しています。

 甲州街道に戻って右折。

 しばらく進むと「善光寺 善光寺通り→」の道路標示があったので、右折してその善光寺へと足を向けました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館)

『本』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 甲州街道を歩く-笹子峠~甲... | トップ | 甲州街道を歩く-笹子峠~甲... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事