鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-番外編 海老名市勝瀬 その1

2017-05-17 05:56:09 | Weblog

 

 JR海老名駅で下車し、小田急線および相鉄線の海老名駅のビナウォーク側に出たのが12:30過ぎ。

 目指したのは海老名市勝瀬にあるという鳳勝寺(ほうしょうじ)でした。

 その位置は海老名市役所のやや東側であることを確認していました。

 『相模湖町史』によると、神奈川県臨時県議会におけるダムの建設正式決定(昭和13年1月)を受けて、さまざまな困難な経緯を経て勝瀬移転の正式調印が行われたのは昭和15年(1940年)9月。

 ダムに沈むことになる日連(ひづれ)村勝瀬の人々は、与瀬町、海老名村、東京日野村、八王子市などの各町村に分散移住することになりました。

 郡内の人々の動員、学徒の動員、朝鮮人や中国人の強制連行労働などによる難工事の末、ダムが完成したのが戦後の昭和22年(1947年)6月14日。

 その前年の昭和21年8月には、ダムによって出来る湖は「相模湖」と命名され、命名式が実施されていました。

 移転の正式調印を受けて、離村式が行われたのは昭和15年(1940年)11月15日。

 『海老名市史 通史編 近代・現代』によれば、旧勝瀬地区全93戸のうち28戸が海老名を選び、「諸般の事情から別行動をとった人々は東京都下、八王子・日野などで生活を送る」こととなりました。

 そして海老名へ移住して来た人々は、そこで終戦を迎えることになります。

 この移転に伴い、集落の鎮守であった八坂神社と菩提寺であった鳳勝寺、さらに石地蔵・道祖神・馬頭観音など集落の道筋(甲州街道の脇道)にあった石造物なども移転。

 「家財道具などは木炭自動車による運搬」であったという。

 日連村勝瀬には、移転前に田んぼ十八町余歩、畑二十五町余歩、山林原野百三十町余歩があり、その補償として、神奈川県は「海老名町の耕地四百二十余町歩を整理し、三十余町歩を生み出して之(これ)を集団移住地に指定(『海老名市史』)しました。

 移転にあたって、勝瀬の人々は三つの要望を出しています。

 一つは、新移住地を「勝瀬」と呼ぶこと。

 二つ目は、水田耕作の可能な土地を代替地とすること。

 三つ目は、相模川の流域であること。

 この三つの要望を入れ、神奈川県は海老名を代替地として選びました。

 しかし全戸移転とはならず、全93戸のうち28戸が海老名を選んで移住することになりました。

 現在の海老名市は小田急線・相鉄線・JR相模線沿線の都市としてさらに新たな変貌を遂げようとしていますが、しばらく前まではJR海老名駅に下りたって北側を望めば、蛙がうるさいほどに鳴く田園風景が広がっていました。その向こうには大山や丹沢などの山々を見晴るかすことができました。

 また海老名駅の南側もかつては田んぼが一面に広がっており、その名残は海老名市役所あたりから周辺を見回すと今でも見ることができます。

 すでに触れたように、津久井の山間部の集落としては珍しく、相模川が蛇行して流れる勝瀬には田んぼが開かれており、その代替地(つまり水田耕作の可能な土地)を勝瀬の人々は要望し、神奈川県は海老名町の耕地を整理して「三十町余歩」を生み出したのです。

 その海老名町の移転地はどのようなところであったのか。

 移転地は、勝瀬の人々の要望通り「勝瀬」と名付けられ、今でも「海老名市勝瀬」と地名表示されています。

 途中、地区案内板を見掛けて近寄って見ると、そこには確かに「勝瀬」と記されていました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『相模湖町史 歴史編』(相模湖町)

・『海老名市史8 通史編 近代・現代』(海老名市)



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