鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.6月取材旅行「海老名~河原口~厚木~愛甲石田」 その12

2014-07-15 05:32:44 | Weblog

 小園村の大川清吉(「まち」と清蔵の長男)は、馬を引いて崋山と梧庵の二人を厚木まで案内しました。

 最初、金物屋を営む溝呂木宗兵衛の家に、崋山の求めに応じて案内しましたが、宗兵衛によってすげなく扱われた崋山は気分を害し、厚木宿一番の宿に案内するようにと清吉に命じ、そこで清吉が案内したのが天王町の「万年屋」という旅籠でした。

 その清吉の労をいたわって、崋山は清吉に夕食を食べさせています。

 その内容は、鰹(かつお)の刺身・鮎の煮ひたし・小鯛の吸い物・ご飯・漬物といったもの。

 鰹や小鯛は、相模湾から行商人によって入ってきたものであるでしょう。

 鮎はもちろん相模川水系で獲れたもの。

 崋山は、夕食をとる清吉から、大川家の盛衰や借金の有無など、こまごまとしたことをそれとなく聞き出してから小園村へ返しています。

 おそらく、「万年屋」の主人平兵衛の周旋で、三々五々、厚木の風流人たちが万年屋にやって来たのは、清吉が帰ってからのことであったでしょう。

 崋山が集まってきた厚木の風流人たちと宴会をしている最中に、息をハアハアさせながらやって来たのは「まち」の夫である大川清蔵でした。

 清蔵は、崋山らが酒宴をしている座の中にかしこまった状態で正座し、露わになった膝頭を隠すこともなくあいさつをする。

 宿の小者が、盆にお菓子をうず高く盛って入って来て、これは小園村の清蔵とかいうお人があなた様に差し上げるものとして持ってきたものだと言う。

 おそらく清蔵は、厚木宿に入ってから菓子屋でそのお菓子を買い求め、「万年屋」の暖簾を潜ったものと思われる。

 崋山が「まち」の夫である清蔵と顔を合わせるのは、これが初めて。

 「まち」は、崋山に、「今日は私の夫はよんどころのない事情があって外出しており、まだ帰宅しておりません」と答えていました。

 崋山は、「まち」の夫がどういう者であるか、その男を見つめました。

 角張った赤黒い顔。ややとがった大きな口で、眉は魚の尾っぽのよう。髭は栗毛色。声はよく響き、立居振舞は蝦蟇(がま)のようである。

 いかにも百姓然とした色黒のがっしりした男であり、その姿を見て崋山は大いに安心します。

 「この男が夫であるならば、大丈夫だ。」

 清蔵が言うには、荻野村に伯母がいて、その伯母が病気で危ないために見舞いに行って帰宅したところ、妻が渡辺登というお武家さまが麹町から訪ねてきたということを聞き、草鞋(わらじ)の紐を解くこともなく家を走り出て、そのまま厚木宿へ急いで向かう途中、息子の帰ってくるのにばったりと出合ったのだとのこと。

 出合った清吉に、清蔵は「お客さまは厚木にいらっしゃるのか」と聞いたところ、「ととさま、急いで急いで。今まで私はお殿さまから酒などごちそうになって、足のふみどころも知らぬばかりに酔っ払って帰るところ」と清吉は答えたという。

 そこで、清蔵は清吉に教えられた旅籠「万年屋」をめざして、「足も空に、心も飛ぶばかりに」、駆け付けてきたのです。

 そういった事情を、息せき切って駆け付けてきた清蔵はあえぎあえぎ崋山に話しました。

 その清蔵に崋山は、まず酒を勧め、「私はかなり酔ってしまったから、今夜はどうです、一晩、横になりながらゆっくりと語りませんか」と言うと、清蔵はたいへん喜んで、集まって来た厚木の風流人たちの後ろの方にうずくまって、出された酒や食事をとりはじめました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)



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