鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 長野

2009-09-02 07:01:54 | Weblog
 長野自動車道をひた走り、長野市内に入ってICから下り、長野県立図書館に入ったのは15:05でした。長野市内については、明治20年11月20日に「信濃大懇親会」が開かれた「城山館」のあった場所、24日に政談演説会が開かれた長野公園内の「喜鶴座」があったところ、25日に懇親会に出席した鶴賀町の「双珠楼」があったところなど、兆民が回ったところを確かめてみたいと思いましたが、時間の関係上、実際に歩いてみることはできず、図書館で調べるだけとなりました。

 碓氷峠や軽井沢に、予想外にかなり時間がかかったのです。それだけ、碓氷峠や軽井沢には歴史的な重みがあったということです。

 長野県立図書館の郷土資料コーナーで目を通した本は以下の通り。

・『臼田町誌 第五巻 近現代編』(臼田町誌刊行会)
・『信濃民権運動史』信州の民権百年実行委員会編(銀河書房)
・『佐久市誌 歴史編(四 近代)』(佐久市)
・『小諸市誌 近現代』(小諸市)
・『長野市誌 第五巻 歴史編 近代』長野市誌編纂委員会(長野市)
・『長野県史 通史編 第七巻近代』(長野県)

 特に参考になったのは、『長野市誌 第五巻』でした。

 同書P460に載っている写真には、第1回衆議院議員総選挙で長野県から当選した人々が写っており、当時の、伊藤大八や島津忠貞、堀内賢郎などの顔を知ることができました。

 また『長野県史 通史編 第七巻』のP424には、和装の堀内賢郎、洋装でひげを生やした立川雲平らが写った写真が掲載されていました。

 長野県立図書館で意外だったのは、長野県の自由民権運動についてまとめた本がきわめて少数であったこと。司書の方にお聞きしましたが、調べてもらってみても、そんなに本は出てきませんでした。長野県内の自由民権運動が活発なことを知っていただけに、その種の本でまとまったものがあまり見受けられないのは意外でもあり、残念でした。

 また、各地方の郷土研究家が集まって発行しているように歴史研究冊子というようなものも、棚の上に見ることはできませんでした。地元の研究家たちの研究・調査の中にとても参考になるものがあることを、私は今まで各地の図書館で調べてみて実感していましたが、長野県立図書館や長野県内の各地の図書館には、そういう類の冊子が置かれているのをあまり見かけませんでした。

 各市町村の「市町村誌」というものは充実しているのですが、地域の人々による地域の歴史の掘り起こしや聞き書きといったものは、あまり行われてはいないように思われました。

 一部の図書館を瞥見しただけでの印象なので、全体的にそうなのかは断定はできませんが、教育県であり、地域の歴史に関心が深いはず(と私は思い込んでいるのですが)の長野県にしては、意外なことだ、と思いました。

 兆民は、愛弟子小山久之助との関係もあって、長野県には各地に足跡を残しているのですが(妻である弥子も長野県の塩尻出身)、市町村誌を見ても、兆民についての記述が少ない(あるいはほとんど無視されている)のは、兆民の足跡をたどっている者にしては残念な思いを抱きました。

 図書館を出たのは17:30。

 長野自動車道に入り、かつて入ったことのある山奥の立ち寄り湯の露天風呂に入って一日の疲れを癒し、そこからしばらく走って、「道の駅」で車を停め、2日目の車中泊をしました。


 続く


○参考文献
・上記の各本
・『中江兆民評伝』松永昌三(岩波書店)
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8 コメント

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堀内賢郎 (roku)
2012-03-18 15:20:35
こんにちは
堀内賢郎を試しの検索したら貴サイトがありました。
不肖、わたしらの父は実家が屋代粟佐の堀内家の賢郎の孫の一人が父です。
長野県立図書館の郷土資料コーナーへ行って見て和装の賢郎の写真を見たいです。
中江兆民、中江藤樹について名前は知っていますがどういう人物か少し調べなくてはいけませんね。
rokuさんへ (鮎川俊介)
2012-03-20 06:48:45
コメント、ありがとうございます。長野県はまた兆民の足跡を追って、ゆっくりと歩いてみたいと思っています。また自由民権運動や満州開拓団のことなどもじっくり調べてみたいと考えています。今後とも、よろしくお願いします。 
             鮎川 俊介
Unknown (びぜん)
2017-07-14 20:12:22
はじめまして。妻の実家にいくと本家(千曲市粟佐)の方から、昔国会議員が出た家系といわれ、堀内賢郎のことであることから貴ブログにたどり着きました。一昨年義父が他界し、一度しっかりと調べてみたいと思い(私も現在地方議員をやっておりまして・・)鮎川様の著書も注文しました。
また、兆民の妻松沢ちのが私の住む塩尻市洗馬の出身であるということですが、こちらでは全くといっていいほど知られていません(恥ずかしながら私も初耳でしたが、今も松沢姓はありますから関係者は存在していると思われます)。そうしたところも調べてみたいと思いコメントに書かせていただきました。市町村誌は図書館には数多くありますが、自由民権運動の盛んだった県としてはその資料的な本は少ないのかもしれません。今後ともよろしくお願いします。
びぜんさまへ (鮎川俊介)
2017-07-15 07:39:24
 私のブログに目を通していただきありがとうございます。
 
 明治になってからの(フランス留学から帰国してからの)中江兆民についてはいろいろと調べたり取材旅行をしたりしているものの、明治日本や近代日本というものが相手であることと、私自身の関心の広まりということもあって、なかなか進捗していません。
 
 長野県は中江兆民と関わりが深いところなので、一時期集中的に取材旅行をして得るところも多かったのですが、残念ながらそれ以後深めていません。

 明治前半期の自由民権運動の高まりはどういう背景で生まれたのか、それ以前の人々の意識とどうつながっているのかいないのか、また自由民権運動が生まれる地盤や蓄積は、幕末の日本の社会にすでにあったのではないか、といったことを考えています。

 ということで中江兆民のことは、今後もしっかりと考えていかなければと思っています。
 
 地域の忘れ去られた歴史の掘り起こしや、それを記憶にしっかりととどめていくということは、とても大切なことだと思います。

 今後のご活躍を祈念します。
ありがとうございます (びぜん)
2017-07-19 07:54:51
綾川 様
早速のコメントありがとうございます。
私のような日本の黎明期の偉人の足跡を支流から見るというやり方が良いかわかりませんが、興味深い史実が身近に存在している事に気付かせていただき感謝いたします。
兆民の妻ちのの実家が神官という事で、私も心当たりがあるのですが、最近まで神主をされていた私の中学時代の先生がおられました。残念ですが、2ヶ月ほど前に亡くなられてしまいました。
お子さん(娘さん)がいました。が、市内在住ではなかったと思います。関係者である可能性は大きいと思っています。
先生の著書を読ませていただき、私も堀内との関係も含め長野県での自由民権運動の足跡を探してみたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。
びぜんさまへ (鮎川俊介)
2017-07-20 10:30:27
中江兆民(篤助)の妻である弥子(いよこ・ちの)について詳しいのは松永昌三氏の『中江兆民評伝』です。
 
 渋江保の証言によると芝兼房町にあった「金虎館」という下宿屋の女主人が弥子(ちの)で、その人が「後に兆民居士の細君になった人」であるとのこと。
 この下宿屋には主として自由党員が出入りしていたところで梁山泊と呼ばれていたとのことです。

 自由民権運動が高揚していたころ、弥子は自由党員の梁山泊と呼ばれていた金虎館の女主人として働いていて、金虎館を訪れている兆民と知り合い、長女千美(ちび)が生まれた後に、中江家に入籍したようです。
 
 そのあと長男として生まれたのが丑吉(うしきち)。

 つまり千美と丑吉の母親が弥子で、この弥子は長野県東筑摩郡洗馬(せば)村の出身で、安政3年(1856年)の8月10日(旧暦)に生まれています。

 長女千美の話では、三歳くらいの時に江戸の御家人の家に養女にやられ、長じて越後の物持ちのところへ嫁ぎ、間もなく離婚。その後、武士上がりの人の仲介で兆民と結婚したとのこと。

 弥子は明治19年から翌20年にかけて「本郷菊坂下三十九番地」に住んでいて、そこに兆民は同居していました。

 その間に千美が、2人の間の最初の子として生まれたようです。

 松沢ちの(弥子)が洗馬村に生まれそこ住んでいたのは幼少の頃までですが、長じてからのある時期、洗馬村か松本あたりに住んでいた可能性もあるようです。

        鮎川俊介
鮎川 様 (びぜん)
2017-07-24 14:07:33
鮎川様、ありがとうございます。
松永昌三著 中江兆民評伝を購入してみました。また、松本清張の火の虚舟も入手し読み進めいます。
先日は妻の実家に行きまして、千曲市の生蓮寺の堀内賢郎の墓を確認し、住職の宇都宮さんにお話をうかがいました。このお寺には大逆事件の新村忠雄兄弟のお墓もあり、今も墓参する方々が来るそうで、長野県の自由民権運動とこれに続く国民の運動の盛んな地域である事を再認識しました。
塩尻は兆民の妻ちのの実家について、やはり、私の中学時代の先生宅である事が確認出来ました。が、お宅にはもう住人はいません。
ちのは3歳の時に東京に出たという事ですが、どういった理由からだったのでしょうか。この中学の恩師のお兄さんが東北大名誉教授の医学博士として東京で開業されていることが、(こちらでも有名な医博)わかりましたが、ご高齢でこの3月末で閉院されたとの事です。
私は作家とかではありませんので関係者のご了解をいただきながら、近代日本を築いてきた偉人に関係された郷土の歴史的な人物に迫っていければと思っています。今後ともよろしくお願いします。
びぜんさまへ (鮎川俊介)
2017-07-25 17:07:40
松沢ちのがどうして江戸の御家人の養女にやられたのか、私もよくわかりません。

 可能性の一つとしては、ちのの父親と江戸の御家人が親しい関係にあるらしいことから、その江戸の御家人がもともとは洗馬村あるいはその近くの百姓ではなかったかということです。

 樋口一葉の父親に見られるように、村の知り合いで江戸に出て御家人となった人物を頼って江戸に出て、やはり御家人となるような例が幕末にはけっこうあるからです(よほど才覚がある場合でしょうが)。

 ちのの両親、特に父親は諸事情からまだ物覚えのつかない幼子を、その親しい知り合いで江戸の御家人になった人物の養女にすることを選択したのです。

 しかし幕末明治の大きな社会の変化によりその御家人である養家は没落し、10代前半のちのはかなりの人生の悲哀を味わった女性ではなかったでしょうか。

 ちのは御家人の娘としての教養とたしなみを身に付けて育ち、実は自分が洗馬村の神官の娘であることを知ったのは、かなり長じてからではなかったかと、勝手に想像しています。

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