鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

北前船を追う-松前と江差 番外編その2

2017-06-17 07:52:03 | Weblog

 

 (写真は「江差屏風」の一部) 

古川古松軒は、天明8年(1788年)の江差を、次のように描写しています。

 「江差という湊はたいへんよい町で、家数は千六百余。すみずみに至るまで貧しい家は一軒もない。

 浜通りには土蔵が幾軒ともなく建ち並び、諸州からの廻船が、この日見るところでも大小五十艘ほどは碇泊している。

 町に入って見てみると、呉服店・酒店・問屋など諸物を売る店が軒を並べており、物が自由に売買される様子は上方(かみがた)あたりとまったく変わらない。

 幕府巡見使を見るために通りに出てきた男女を見ると、縮緬(ちりめん)の単衣(ひとえ)に白あかりの紋などを付け、人品も言葉つきもよく、辺鄙の風俗はまるで見られない。

 詳しく聞いてみると、近江や越前などからの出店(でみせ)が多く、上方出身の者が多いとのこと。

 その上、長崎の俵物問屋もある。

 湊町であるがゆえに上方の風俗にならい、このようであるとのことである。」

 (以上、鮎川が意訳)

 松前と同じように、まるで上方の京都や大坂を蝦夷地に見るごとくである。

 辺鄙なところなのに辺鄙の風俗は全く見られず、人品(じんぴん)も言葉つきも着ている衣服も上方筋と全く変わらない。

 さまざまな物を売る商店が軒を並べ、活発な売買が行われている。

 そして沖合には諸国からやって来た大小の廻船が五十艘ほども碇泊している。

 長崎へ俵物(たわらもの)を運送する問屋もあるということは、この江差は長崎ともつながっているということ。

 古松軒が上方筋の風俗が見られる理由を聞いてみると、近江や越前からの出店が多く、上方出身の者が多いからこのように上方の風俗が見られるのだという。

 つまり日本海航路によって(「北前船」によって)上方(かみがた)とつながっており、近江商人などの出店があって上方出身の者が多いから、このような上方の風俗が見られるのだと古松軒は合点したのです。

 また、古松軒は次のようにも記しています。

 「奥羽地方は寒い国で瓦だと弱いということで瓦葺きの家は見られなかったのに、この江差の町には瓦葺きの家も瓦葺きの土蔵もある。この江差もたいそう寒いところであるのにどうして瓦を使っているのかと疑問に思って聞いてみたところ、みな上方で焼いた丈夫な瓦であるので寒さが厳しくても破損はしないのだという。また家々には図のような玄関が付いているが、小さい家であっても土地の習いであるのか相応の唐破風造りの玄関にしてある。」

 松前と同じように、この江差でも瓦葺きの家や土蔵を見ることができたのです。

 では「上方焼の念入りし瓦」はどのように運ばれてきたのかというと、もちろん「北前船」による。

 「北前船」のバラストとして船の底に積み上げられて運ばれてきたのですが、一般庶民には買うことが出来ない高価なものであったでしょう。

 それが惜しげもなく家や土蔵の屋根に使われていて、それは奥羽地方では見られなかった町の風景でした。

 特に土蔵の屋根は、防火上からほとんどが瓦葺きであったでしょう(松前も同様)。

 さらに小さな家であっても玄関が付いていて、それは唐破風(からはふ)造りでした。この唐破風の玄関の屋根も瓦葺きであったはず。

 宮本常一さんは、以上のような松前や江差の町の様子を菅江真澄はほとんど記していないとしています。

 それは菅江真澄が町の様子を知らなかったのではなく、知っておりながら書けなかったのだと宮本さんは判断しています。

 なぜなら、幕府巡見使の一員であった古川古松軒と違って、「一人の旅人が他人に疑われないようにして歩いて行くためには、今いったような問題には全然ふれることを許されなかったんじゃないか。それが今度は非常に目のつんだ紀行文を書きながら割合い面白みのない原因になっているんじゃないだろうかと思われます」と宮本さんは指摘しています。

 「一人の旅人」に過ぎない菅江真澄の場合、知っていてもそのことを書けない事情があったということです。特に松前藩に対する批判につながるようなことは文章に書きとめておけない事情があったのです。

 古松軒の文章の中に、次のようなものがあります。

 「兵左衛門(江差の人)と親しくなってこのあたりのことを尋ねたところ、領主(藩主)、役人から堅く口止めをされているような口ぶりで詳しく語らなかった」

 領内の事情について語ることを藩主や役人から堅く口止めされているような口ぶりであったということであり、藩の内実が外部に漏洩することを松前藩はかなり厳しく警戒していた様子がうかがえます。

 菅江真澄はしたがって、知っていても松前藩が秘密にしておきたいような内実を日記に書き留めることはできなかったものと思われます。

 

 続く

 

〇参考文献

・『菅江真澄』宮本常一(未來社)

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