鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.夏の取材旅行「南相馬~相馬~亘理」  その9 

2012-09-11 05:47:56 | Weblog
 その震災瓦礫の集積場を過ぎてまもなく、道路の左手に神社の境内地らしき一画を見掛け、車を停めました(8:53)。

 その一画には石碑や石造物がいくつかあり、神社の杜(もり)があった名残りである松の木が数本あって、その中央奥に、花崗岩の礎石の上に据えられたこぶりの木造の社殿がありました。

 そしてその社の背後には「八重垣神社」と墨書された標柱が立てられていました。

 その社殿から南方向に向かって参道が延びていますが、社務所や石灯籠、狛犬や鳥居などは何もなく、参道中左手にプレハブの小屋のようなものが設置されているだけ。

 石造物には「古峯神社」、「蠺神社」、「庚申」、「子安山神」などといった文字が刻まれていました。

 「蠺(さん)神社」というのは、蚕の神様を祀った神社であり、この地域に養蚕が盛んな時期があったことを示しています。

 参道沿いのプレハブ小屋の壁には写真が張ってあり、震災以前の八重垣神社の写真と、震災後の境内で行われた植樹祭における地域の人たちの集合写真、そして津波で流され地べたに落下した御神輿の写真が掲載されていました。

 「植樹祭」の集合写真の手前の横断幕には、「みんなの鎮守の森 植樹祭」と記されているから、この「八重垣神社」はこの地域の「鎮守様」であったことがわかります。

 その横に「河北新報をケータイする。」という『河北新報』2011年4月29日金曜日の記事を検索してコピーしたものが張り出されていました。

 それには「おみこし発見『新たな信仰の場に』 宮城・山元」とありました。

 その記事によると、この八重垣神社は、「お天王さん」と地元で親しまれてきた神社であり、宮城県山元町高瀬にある神社。

 この神社は、東日本大震災の津波で流失。大同2年(807年)の創建と伝えられる町指定文化財であったという。

 スサノオノミコトを祭り、初詣や夏祭りには地元だけでなく、近隣の亘理町や福島県新地町からも大勢の人が訪れていたとのこと。

 総ケヤキ造りの社殿は、200~250年前の江戸時代に造営されたとされていたらしい。

 津波のために神社は基礎以外が流され、跡地には鳥居の残骸などが転がったりしていましたが、神社で保管されていたみこしが、西に約300メートル離れた元総代長の宅地に流れ着いているのが見つかり、損傷は激しいものの原形をとどめており、現在は町内の天神社で保管されているとのこと。

 先の震災前の八重垣神社の写真には、2本の鳥居の向こうに社殿が見えますが、これはその記事によれば江戸時代の造営になるもので総ケヤキ造り。

 社殿はこんもりとした「鎮守の杜」に囲まれています。

 しかし昨年3月11日の大津波によって、社殿や鳥居などは基礎を残してすべて流失し、そこに保管されていた神輿も約300メートル内陸部へと流され、元総代長の宅地で見つかったというのです。

 その見つかった状態を写した写真が、地べたに横たわっている神輿の写真であるでしょう。

 こんもりと茂っていた「鎮守の杜」も、数本の松の木を残してあとはほとんど倒れたか流失してしまっています。

 ただ境内にあった石碑や石造物は、その重みのために津波に流されず、一部破損したものはあるもののそのままに残っているのですが、その下部はかなり砂に埋まっており、津波とともに押し寄せてきた大量の砂が、境内一面を覆ったことを示しています。

 境内には「タイムカプセル 埋設予定地 埋↓二〇一二・八月吉日 開↓二〇二一・七月祭礼日」と記された板が立てられているところがありました。

 すでに埋設されたのか、それともこれから埋設されるのかはわからない。

 その「タイムカプセル」を開くのは「二〇二一年」。

 八重垣神社の周囲は、見渡す限り更地となってしまっていますが、これから10年後、この周囲の景観はどのようなものになっているのだろう。

 その周囲の景観の変貌の中で、10年前に埋められたタイムカプセルが、7月の祭礼日に開かれることになるのです。


 続く


○参考文献
・『丸森町史』(丸森町)


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