鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010年夏の取材旅行「高知市および高知市周辺」山田町~秦泉寺~絵金蔵 その2

2010-10-23 05:38:28 | Weblog
 山田橋周辺をしばらく歩いた後、西へ向かう通りへと入って、まず現れたのは高知八幡宮。看板には「高知城内、城下の鎮守さま 山田町 高知八幡宮」と記されています。

 境内には、例の「高知城下町名今昔」という案内板があって、「旧山田町」について説明がなされていました。

 「長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が一時城下町をつくろうとしたとき、香美郡山田村から住民を移した古い町、参勤交代の順路は山田橋を渡って北東へ延びていた。橋の南の広場には、城下三番所の一つの山田橋番所があった。周辺には自由民権の思想家中江兆民の生家など、武士の屋敷があった。高知八幡宮は、高知城内から明治初期にこの町に移された。」

 「中江兆民の生家」があったところは、山田町でも、江ノ口川と堀川、それに牢屋(山田町の牢)と広小路に面した町屋に囲まれた一郭であり、町屋と区別して「部屋町」とも言われました。そこには足軽級の番所や牢屋に勤める番人などが住む長屋が並び、その江ノ口川に接するところには矢場がありました。「兆民の生家」は「武士の屋敷」というほどのものではなくて、長屋の中の一軒であったでしょう。しかし菜園を作ることができるほどの庭はあったようです。

 この高知八幡宮は城内にあったものを明治初年にここに移したものであって、兆民の幼少時にはなかったもの、ということになります。

 高知駅前から延びる通りが「はりまや通り」で、それが江ノ口川を渡るところに架かっている橋が高知橋。橋上からは、江ノ口川の下流やや左手から差し登って来る朝日が見えました(5:44)。また橋上からは、その下流に架かる山田橋も見えます。

 まもなく現れたのが「高知城下町名今昔 旧廿代(にじゅうだい)町」の案内板。ここは材木町に近く、多数の大工が住んでいたという。

 高知県立図書館に行く時、車を停めた大型立体駐車場の横を通り、前に通った道をたどって「中の橋通り」に出たところで右折すれば、そこが江ノ口川に架かる「中の橋」(5:55)。

 その「中の橋」を渡ると、そこは「あたごまち」と書かれた看板のある商店街。頭上の道路標示には「↑本山 土佐山」とある。この通りは、土佐山へと向かう時に車で通った道であって、かつては愛宕山に鎮座する愛宕大権現へと通ずる「愛宕道」と呼ばれた道になります。このアーケードのある商店街は、「あたご商店街」といい、その通りは「あたご商店街通り」というらしい。

 JR土讃線を越えてしばらくすると、その商店街は終わり、やがて愛宕大橋のたもとに出ました(6:08)。この橋から見える川は久万(くま)川。その下流をみれば、右側がかつての「江ノ口村」になり、左側がかつての「秦泉寺村」になるでしょう。

 川の両岸はコンクリート壁の護岸堤防になっており、河原が広がっているような川ではなくなっています。また川の両側にはビルや人家が建ち並んでいて、かつてその流域が一面の田んぼであったという面影はほとんど残っていません。それは上流を眺めても同様です。市街地がどんどん広がっていったのです。

 「愛宕道」を北進していくと、やがて正面に小高い山が見えてきたあたりで、通りはやや左手にカーブします。カーブを進んでこの小高い山の西側の麓に至ると、そこに「愛宕神社御祭神の由緒と御神徳」と記された案内板があり、石鳥居があって、そこから上の愛宕神社へと延びる階段がありました(6:15)。

 山田橋付近を出発したのが6:36であったから、ここまでは40分ほどであり、秦泉寺村の浅川家がどこにあったのかはわからないが、子どもの足でも1時間ちょっとで来ることができたところだと思われる。

 かつては1、2時間ほど歩くなどというのは当たり前であったから、山田町から中の橋、愛宕大橋を渡って秦泉寺村の浅川家へ赴くというのは、それほど覚悟を要するようなものではなかったはずであり、中江家と浅川家との間にはひんぱんな往来があったものと思われます。

 先ほどの案内板には、この愛宕神社は山内家の尊崇が厚く、藩内の防火鎮護と諸災防除が祈願されたといったことなどが記されています。

 石鳥居を潜り、早速、両側に鬱蒼とした樹木が繁る長いコンクリート製の階段を上り始めました。


 続く


○参考文献
・『中江兆民全集⑪』「土佐紀游」
・『土佐の芸能 高知県の民俗芸能』
・『土佐の民謡』

 


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