鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

馬場孤蝶の『明治の東京』に見る明治東京の景観 その4

2010-07-01 06:49:52 | Weblog
 「竹町の若竹へ吾々が行きだしたの、明治十四年頃であったと思う。」と孤蝶は記しています。

 「明治十四年」というのは、1881年で、孤蝶(馬場勝弥)は12歳。「吾々(われわれ)」ということは、母や父、あるいは兄の辰猪も含まれていたかも知れない。

 この「若竹」で孤蝶が聞いた噺家は、三遊亭円遊、円遊の一座の立川談志、同じく円遊一座の橘屋円太郎。この円太郎はあの「円太郎馬車」の円太郎。ヘラヘラ坊万橘(まんきつ)、「先代の遊三(ゆうざ)」もこの円遊の一座。ほかに五明楼玉輔(先代)、桂文治、禽吾楼(きんごろう)小さん、燕枝(えんし)、春風亭柳枝(しゅんぷうていりゅうし)、柳条、司馬龍生(しばりゅうせい)、円馬、円橘(えんきつ)、橘之助(きつのすけ)、円生(えんしょう)、円朝、伯円など。

 落語だけでなく、手品も見たらしい。

 「手づま師」としては、柳川一蝶斎、帰天斎正一(西洋流の手づま師で、講釈もやれば幻燈もやる)、ジャグラ操一。

 「十人芸」と称する西国坊明学。これは「大きな盲坊主」で、義太夫もやれば琵琶も弾いたという。

 円遊の一座で、年増の常盤津語の宝集院金之助。新内語の鶴賀若辰。やはり新内語の岡本宮子。

 「要するに、明治三十年頃までの寄席はあらゆる平民芸術の演ぜられる壇上であった」と、孤蝶は結論づける。

 孤蝶は、家にやってきた貸本屋の男から初めて聞いた落語や、母と初めて行った「荒木亭」で聞いた落語も含めて、印象に残った落語の内容をよく覚えているが、そのようによく覚えているのは、次のような理由からではないかと述べています。

 「元より善い寄席ではなかったので、噺家も善い芸人ではなかったのだううが、今の記憶では、どうも話方が旨(うま)かったように思われる。落(おち)も余り聞かないうち、しかも子どものうちのことであるから、何がなしに旨かったように思われたのであるかも知れぬが、しかし又他方から考えると、当時の噺家は中流どころでも、今の噺家より芸がずっと上であったかも知れぬ。」

 つまり、昔の噺家の方が、中流どころであってもずっと上手(うま)かったと、孤蝶は言うのです。

 「木戸銭が高くなり、興行場が立派になった割り程には、芸が上手になったようには思えない。」

 これが孤蝶の結論でした。

 「僕らの少年の時分には、寄席は平民娯楽場の中心であったのだが、現今では、そうではなくなってしまった。」

 そういう孤蝶には、彼が少年時代の東京で見たり聞いたりした寄席(大衆芸能)への強い愛惜の念があるわけですが、それについてより詳しくまとめた随筆が「文化の変遷と寄席の今昔」というもの。

 この随筆の内容については、次回に触れてみることにしたい。


○参考文献
・『明治の東京』馬場孤蝶(現代教養文庫/社会思想社)
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現代教養文庫 社会思想社 りゅうせい 春風亭柳枝 五明楼玉輔 三遊亭円遊
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