「摂津大掾(せっつだいじょう)」とは、実は竹本越路太夫のこと。孤蝶は「明治の義太夫界の巨人と仰がれ、近代絶倫の美音と称せられた竹本摂津大掾」と記しています。
「僕のこの人に関する記憶は今より二十六、七年前のことに属する。この人が末(ま)だ越路太夫といっていた時分のことである。」
孤蝶は日記を付けていたようで、彼が初めて越路太夫を聞いた年月日がその日記からわかる。
孤蝶が初めて越路太夫を聴いたのは明治23年(1890年)の5月3日で、場所は「本郷の若竹」。午後1時から始まり午後8時半頃に終わりました。木戸銭は20銭かせいぜいで30銭ぐらいと安いものでした。
21歳の孤蝶の聴いた、越路太夫の声や語りはどういうものであっただろうか。
「越路はこの時は声の美しさの方では稍(やや)下り坂だという人があったのであるが、まだどうして実によい声であった。殆ど男の声とは思えないほどの綺麗な声であった。節を細かに語って行くところは、いわゆる盤上に玉を転ばすという形容はこの様な場合に用いるものであろうかと思われたくらいであった。」
孤蝶は5月5日、10月17日、10月19日、11月23日、翌24日、12月19日にも越路太夫を聴いていますが、これが孤蝶が東京の寄席で越路太夫を聴いた全て。特に12月19日は『合法(がっぽう)』すなわち『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』であり、兆民が大阪で旅館の主人小塚藤吉と聴いたものと同じ。兆民の言う、越路太夫の「その音声の玲瓏、曲調の優美」を、孤蝶も聴いたことになります。場所は「宮松」という寄席であったらしい。
東京の寄席以外で孤蝶が越路を聴いたのは、明治24年(1891年)の12月。高知市の共立学校へ英語教師として赴任する途中、神戸で船待ちの間に聴いたことと、同月12日に神戸の「大黒座」で聴いたこと。
越路太夫の風采はどうであったか。
「越路はからだの小さい、顔の小さい、如何にも濃い地蔵眉の色の赤黒い男であった。語り出す前に、本を両手で顔の前で捧(ささ)げて、長い間いるのであったが、或(ある)人が、丁度一分間そうしているのだといったことがあるので、僕も一度時計を見て試したが、確(たしか)に一分間であった。」
このような記述が出てくるところが、孤蝶のこの随筆集の面白いところ。
「越路の義太夫は邪路に入ったものであるとか、いわゆるケレンであるとかいう評は黒人(くろうと)のなかに大分唱えられていた。けれども、声の美しかったこと、節の細かったことは、何人も争い得ないところであったろう。その点では越路時代の摂津大掾は不世出の人であったことは、疑いがない。」
と孤蝶は結論づけています。
孤蝶によると、夏目漱石も、兄からもらった外套(がいとう)を着て、本郷の「若竹」に越路太夫を聴きに行ったことがあるという。そこで造兵工廠(小石川)の職工と間違われたという話が紹介されていますが、この話は、孤蝶が漱石の口からじかに聞いたものであるでしょう。
義太夫については「義太夫の話」という随筆においても語られます。
これを読むと、孤蝶は子どもの時分から義太夫を聴くのが好きであったようだ。
明治21年(1888年)頃、孤蝶の姉が土佐へ旅行した時に、姉が宿に女義太夫の弥昇(やしょう)というのを座敷に呼んで聴いたことがあったのですが、その弥昇が、その後間もなく竹本稲枡の一座に加わって上京したことがある。姉に贔屓(ひいき)になった縁故で、弥昇はよく孤蝶の家を訪ねてきて、それで自然と竹本稲枡の一座とも知り合いになったために、孤蝶は、姉や友人と一緒に、下谷の「吹抜」や両国の「新柳亭」などにまで稲枡一座のかかっているところへよく聴きに行ったりしたものだという。近所の「鶴仙」や「琴平」にかかった時には、ほとんど毎晩のように出掛けたという。
弥昇から、義太夫の稽古をつけてもらうほどに、孤蝶の義太夫道楽は高じていきました。
孤蝶は、兆民のように大阪の文楽座を見たことは、一度もないようだ。
「大阪の文楽座を見たいと思っているが、未だ見る機会を得ないでいる。人によると、義太夫も、人形にかけたのを、見なければ、真正(ほんとう)の義太夫の味は分らないのだというのだ。が、また、折角、善(い)い義太夫を聴いているのに、人形が邪魔になってならないと、いうものがある。僕には、後者の説に一理があるように思う。」
兆民が大阪の文楽座で観たのは、越路太夫が義太夫を語る人形浄瑠璃でした。孤蝶が大阪の文楽座で人形浄瑠璃を観たなら、どういう評を下しただうか。
ちなみに孤蝶が一番好きな義太夫曲は、『傾城(けいせい)恋飛脚』の「新口村(にのくちむら)」でした。
孤蝶は、東京の寄席で、落語や手づなばかりか、義太夫も大いに楽しんでいたのです。
続く
○参考文献
・『二〇〇一年の中江兆民』井田進也(光芒社)
・『明治の東京』馬場孤蝶(現代教養文庫/社会思想社)
「僕のこの人に関する記憶は今より二十六、七年前のことに属する。この人が末(ま)だ越路太夫といっていた時分のことである。」
孤蝶は日記を付けていたようで、彼が初めて越路太夫を聞いた年月日がその日記からわかる。
孤蝶が初めて越路太夫を聴いたのは明治23年(1890年)の5月3日で、場所は「本郷の若竹」。午後1時から始まり午後8時半頃に終わりました。木戸銭は20銭かせいぜいで30銭ぐらいと安いものでした。
21歳の孤蝶の聴いた、越路太夫の声や語りはどういうものであっただろうか。
「越路はこの時は声の美しさの方では稍(やや)下り坂だという人があったのであるが、まだどうして実によい声であった。殆ど男の声とは思えないほどの綺麗な声であった。節を細かに語って行くところは、いわゆる盤上に玉を転ばすという形容はこの様な場合に用いるものであろうかと思われたくらいであった。」
孤蝶は5月5日、10月17日、10月19日、11月23日、翌24日、12月19日にも越路太夫を聴いていますが、これが孤蝶が東京の寄席で越路太夫を聴いた全て。特に12月19日は『合法(がっぽう)』すなわち『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』であり、兆民が大阪で旅館の主人小塚藤吉と聴いたものと同じ。兆民の言う、越路太夫の「その音声の玲瓏、曲調の優美」を、孤蝶も聴いたことになります。場所は「宮松」という寄席であったらしい。
東京の寄席以外で孤蝶が越路を聴いたのは、明治24年(1891年)の12月。高知市の共立学校へ英語教師として赴任する途中、神戸で船待ちの間に聴いたことと、同月12日に神戸の「大黒座」で聴いたこと。
越路太夫の風采はどうであったか。
「越路はからだの小さい、顔の小さい、如何にも濃い地蔵眉の色の赤黒い男であった。語り出す前に、本を両手で顔の前で捧(ささ)げて、長い間いるのであったが、或(ある)人が、丁度一分間そうしているのだといったことがあるので、僕も一度時計を見て試したが、確(たしか)に一分間であった。」
このような記述が出てくるところが、孤蝶のこの随筆集の面白いところ。
「越路の義太夫は邪路に入ったものであるとか、いわゆるケレンであるとかいう評は黒人(くろうと)のなかに大分唱えられていた。けれども、声の美しかったこと、節の細かったことは、何人も争い得ないところであったろう。その点では越路時代の摂津大掾は不世出の人であったことは、疑いがない。」
と孤蝶は結論づけています。
孤蝶によると、夏目漱石も、兄からもらった外套(がいとう)を着て、本郷の「若竹」に越路太夫を聴きに行ったことがあるという。そこで造兵工廠(小石川)の職工と間違われたという話が紹介されていますが、この話は、孤蝶が漱石の口からじかに聞いたものであるでしょう。
義太夫については「義太夫の話」という随筆においても語られます。
これを読むと、孤蝶は子どもの時分から義太夫を聴くのが好きであったようだ。
明治21年(1888年)頃、孤蝶の姉が土佐へ旅行した時に、姉が宿に女義太夫の弥昇(やしょう)というのを座敷に呼んで聴いたことがあったのですが、その弥昇が、その後間もなく竹本稲枡の一座に加わって上京したことがある。姉に贔屓(ひいき)になった縁故で、弥昇はよく孤蝶の家を訪ねてきて、それで自然と竹本稲枡の一座とも知り合いになったために、孤蝶は、姉や友人と一緒に、下谷の「吹抜」や両国の「新柳亭」などにまで稲枡一座のかかっているところへよく聴きに行ったりしたものだという。近所の「鶴仙」や「琴平」にかかった時には、ほとんど毎晩のように出掛けたという。
弥昇から、義太夫の稽古をつけてもらうほどに、孤蝶の義太夫道楽は高じていきました。
孤蝶は、兆民のように大阪の文楽座を見たことは、一度もないようだ。
「大阪の文楽座を見たいと思っているが、未だ見る機会を得ないでいる。人によると、義太夫も、人形にかけたのを、見なければ、真正(ほんとう)の義太夫の味は分らないのだというのだ。が、また、折角、善(い)い義太夫を聴いているのに、人形が邪魔になってならないと、いうものがある。僕には、後者の説に一理があるように思う。」
兆民が大阪の文楽座で観たのは、越路太夫が義太夫を語る人形浄瑠璃でした。孤蝶が大阪の文楽座で人形浄瑠璃を観たなら、どういう評を下しただうか。
ちなみに孤蝶が一番好きな義太夫曲は、『傾城(けいせい)恋飛脚』の「新口村(にのくちむら)」でした。
孤蝶は、東京の寄席で、落語や手づなばかりか、義太夫も大いに楽しんでいたのです。
続く
○参考文献
・『二〇〇一年の中江兆民』井田進也(光芒社)
・『明治の東京』馬場孤蝶(現代教養文庫/社会思想社)










