鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-笹子峠~甲府まで その10

2017-10-05 07:30:04 | Weblog

 

 坂道を下って行くと幅の狭い舗装道路の両側に人家が並んでおり、通りに出ていたおじさんに、「この道を進めば国道20号に出ますか」と尋ねると、「この道は旧道で、しばらく行くとトンネルの向こうで国道に出るよ」とのこと。

 家の旧道沿いの石積みは段差をなしていて、幅の狭い道とともに旧道の雰囲気を漂わせています。

 左手に丸石が4つ積み上げられた石造物があり、丸石の下の角石には「道祖神」と刻まれていました。そしてその右側には「六地蔵」が彫られた石造物が二つ前後に並んでいます。

 道祖神や六地蔵などがあることからも、この道が旧道(甲州街道)であったことは確実です。

 ただその置かれている場所はコンクリートの側壁の下であり、なんとも殺風景でした。

 家並みはすぐに途切れ、古い土蔵を左手に見て進むと唐突に「甲州街道」と記された標柱が立っていました。「平成二十五年十二月」に「大和まちづくり協議会」によって建てられたとあり、ごく新しいものでした。

 さらに進むと「共和」バス停、その先に「古跡 武田不動尊」の標柱があって、その側面に「この地は勝頼公一行が瀧川勢に追迫せられ、我末路(まつろ─鮎川)幾何(いくばく)もあらず、留めて後世に残さんと、奉持していた不動尊を里人に託したところと云われています」と由来が記されていました。

 その「武田不動尊」の跡には、赤レンガの台の上に長細い常夜燈が建てられていました。

 その史跡を右手に見て道は大きく左へとカーブしながらゆるやかに上り坂となり、「甲州市消防団 大和分団第六部」があるところで国道20号に合流。

 そこからふたたび国道に入り「共和洞門」を3つ潜ってしばらく進むと、深沢川に架かる「柏尾(かしお)橋」の右手前に「柏尾橋」の案内板があり、その背後の小さな公園(柏尾坂公園)には「近藤勇之像」が立っていました。

 公園に付属する広場には「柏尾戦争を伝える資料」や「柏尾の戦い」などの案内板などがあり、慶応4年(1868年)3月に起きた「柏尾の戦い」(幕府軍と新政府軍との戦い)について詳しく知ることができるようになっていました。

 その広場には「柏尾坂の馬頭観音」もあり、その案内板には次のように記されていました。

 「明治36年(1903)中央本線が開通するまで『甲斐駒や江戸へ江戸へと柿葡萄』(基角)が伝えるように甲州街道の物流を担っていたのは馬である。

 街道に沿って配置された宿場には、高札で次の宿場までの馬での運送賃が駄賃として掲げられていた。

 しかし街道には難所も多く、そこで息絶える馬もあり、供養のため馬頭観音が数多く建立された。

 柏尾坂の馬頭観音は、ころび石と呼ばれた急坂に、天保7年(1836)8月に勝沼宿の脇本陣家が中心となり惣伝馬の講中が、信州高遠北原村の石工太蔵を招いて建立したもので、三面に馬頭観音を含む彫像が刻まれ、勝沼宿の管内では柏尾の袖切観音とならび優れた造形を有したものである。」

 これが建立された「天保7年(1836)8月」(旧暦)とは、まさに「天保騒動」が勃発した時。

 一揆勢はここを8月21日に勝沼宿に向かって通過していますが、この「柏尾坂の馬頭観音」がすでにここに建てられていたとしたら、それはまだ造られたばかりの真新しい馬頭観音であったはず。

 深沢川に架かる現在の「柏尾橋」(鉄骨橋)は平成8年に造られたもので、その北側にかつて「明治柏尾橋」、その奥に「大正柏尾橋」、さらにその奥に「江戸柏尾橋」がありました。

 この深沢川に架かる「江戸柏尾橋」は、両岸に橋脚をおろした幅10尺(約3m)長さ12間(約22m)の板橋で、その架け替えや維持を行っていたのは勝沼宿でした。

 慶応4年の「柏尾戦争」は、この橋を挟んで繰り広げられたという。

 またこの地には大善寺境内の東端を示す鳥居(東神願(ひがしじんが)鳥居)があって、甲州街道はその鳥居の下を通っており、その鳥居が勝沼宿入口の目印となっていたとのこと。

 かつての旅人は東神願鳥居を潜り、深沢川に架かる柏尾(かしお)橋(江戸柏尾橋)を渡って勝沼宿へと入って行ったことになります。

 柏尾橋(平成柏尾橋)を渡って柏尾大善寺へと向かう坂道を入っていくと、右手の山の斜面にあったのが「芭蕉翁甲斐塚」。

 案内板によれば宝暦12年(1762年)に建立されたもので、「蛤の生ける甲斐あれ年の暮」と刻まれており、県内に数多くある芭蕉句碑の中で最も古いものであるとのこと。

 確かに甲州道中筋においても、これまでもあちこちに芭蕉句碑を見掛けています。

 柏尾大善寺境内に入ってまず興味深かったのは、「甲州ぶどう発祥の地 大善寺伝説」というもの。

 この伝説に登場する僧は行基であり、養老2年(718年)に甲斐国勝沼の柏尾を訪れて修行していた行基が薬師如来像を刻んで大善寺を開き、そこに薬園を作って民衆を救い、法薬のぶどうのつくり方を村人に教えたことが甲州ぶどうの始まりであるという。

 この「大善寺伝説は、仏教渡来とともに大陸から我が国にもたらされたぶどうが、薬師信仰と結びついて、この地に伝えられたことを指すものとして理解されます」と、案内板にありました。

 真言宗智山派の大善寺本堂(国宝)は美しい寄棟造桧皮葺(ひわだぶ)きの屋根を持つ密教建築で、中世和様建築の典型を示す関東最古の遺構であるとのこと。

 境内からの甲州盆地の広々とした眺めとともに、見応えのあるものでした。

 境内西側の墓地に向かう途中には、「勝沼や 馬さは葡萄を喰ひながら 芭蕉」と刻まれた真新しい芭蕉句碑もありました。

 甲州街道の勝沼宿のあたりを人や荷物を運んでいく馬は、ぶどう棚にたわわに実ってぶら下がっているぶどうを食べながらゆっくりと道を進んでいく、といった意味でしょうか。

 この勝沼近辺のぶどう畑で栽培され収穫されたぶどうは、やはり馬(甲斐駒)の背によって甲州街道および笹子峠を「江戸へ江戸へと」運ばれた重要な商品作物(柿や煙草なども)でもありました。

 大善寺本堂から石段を下って山門を潜り国道20号(甲州街道)に出ると、門前にはぶどうを売る店がいくつか並んでおり、山の斜面にはぶどう畑が広がっていました。

 国道20号はこの大善寺門前を過ぎたところで笛吹方面へと向かい、旧甲州街道は右手へ分岐して勝沼や石和方面へと向かうことになります。

 

 続く

 

 

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