鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-番外編 海老名市勝瀬 その最終回

2017-05-20 06:05:25 | Weblog

 

 海老名市の「住居表示街区案内図」で勝瀬地区を見てみると、県道407号線の東側、国分南三丁目(北側)と大谷北二丁目(南側)の間に「勝瀬」があって、1丁目から10丁目までが示されています。

 このうち10丁目は鳳勝寺の境内地であり、9丁目が八坂神社の境内地で、両者とも河岸段丘の急な傾斜地にあります。8丁目は海老名市立勝瀬保育園。

 従って1丁目から7丁目までが住宅地域。

 勝瀬の人々で海老名を選んだ人たちは、この1丁目から7丁目に移住したものと考えられます。

 通りによって整然と区画されているのが、人工的に造られた移転地であることを示しています。

 ダム建設などによって移住先になった宅地代替地は、私が今まで目にしてきたところではその多くが同様な形になっています。

 つまり通りによって整然と四角く区画されている、ということです。

 ちなみに「勝瀬文化センター」は、八坂神社・鳳勝寺へと向かう通り(西から東にまっすぐに延びる通り)の入口の北側、4丁目の角に位置しています。

 その勝瀬4丁目の電柱には「曹洞宗 鳳勝寺 ←入口 勝瀬4」と記された案内表示が付けられていました。

 勝瀬文化センターを出たのが14:05。

 地区内を歩いてみると、通り沿いには立派な垣根があり、垣根から中をのぞいてみると移転した頃の住居と思われる建物(赤いトタン屋根)が新しい2階建ての家と並んでいたり、いろいろな野菜が栽培されている広い畑があったりと、かつての農家の雰囲気を漂わせている家がかなりあり、まわりの新興住宅地とは異なる景観がこの地区にはありました。

 また一方ではアパートや密集する住宅地となっているところもありました。

 もともとは広い畑が屋敷のまわりにあったものが、押し寄せる宅地化によって畑が失われた(土地を売った)場合も多いように思われました。

 勝瀬地区を離れるとその傾向はさらに著しく、河岸段丘のゆるやかな斜面は新興住宅の密集する地域になっています。

 東から西へと河岸段丘のゆるやかな斜面を下って行く通りを下り切ると(根下バス停前交差点)、かつて水田が一面に広がっていたところは高層ビルが建っていて、そのビルの間からわずかに大山が見えます。

 特に海老名駅の周囲には高層マンションなどが林立していて、まるで屏風のよう。

 その手前にもわずかながらかつての水田が残っています。

 勝瀬の人々に県側から提供された水田があったところは海老名市役所のある周辺。

 真西には大山が聳え、また少し西へと田んぼ道を進めば相模川の清流が北から南へと流れていました。

 そのかつての水田地帯にも大きな通りが縦横に走って整然と土地が区画され、今後もさらに都市化が進んでいくように思われました。

  「〈県央〉高速・観光バスターミナル バァスル海老名」の広い駐車場などを通り沿いに見ながら、海老名の中心街の雑踏を抜けて海老名駅に着いたのは14:30頃でした。

 

 終わり

 

〇参考文献

・『湖底への追憶』(相模湖水没旧勝瀬地区居住者会)

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