鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-藤野から野田尻まで その1

2017-07-12 06:30:20 | Weblog

 

  JR藤野駅から国道20号を相模湖駅方面に戻り、勝瀬橋のやや手前を左手に曲がる道が甲州街道の本道で、そこに吉野宿の「高札場」がありました。

 その「高札場」の手前(与瀬宿側)におそらく「二瀬越し」の脇道(勝瀬集落を通る近道で、相模川を渡し船で2回渡る)との合流点があったと思われますが、このあたりは新しい勝瀬橋や国道20号が出来たことでかなり土地の様相が変わっていることは、前に確認した通りです。

 この吉野宿の本陣跡の国道隔てた斜め前には、明治30年(1897年)頃に建築されたという、旅館の名残をとどめる養蚕農家である「吉野宿ふじや」(相模原市登録有形文化財・観覧可能な曜日は土日と祝日)があり、その入口右側に「甲州道中案内図」があって、与瀬宿あたりから上野原宿あたりまでの甲州街道(本道)のルートを知ることが出来ます。

 吉野宿は古くは吉野村といいましたが、寛政2年(1789年)から吉野宿と改称。

 吉野宿は奈良本・椚戸(くぐと)・矢部・天奈の4つの集落から成りました。

 椚戸を過ぎると吉野宿の入口に差しかかり、街道左側に御料牓示(ごりょうぼうじ)と高札場がありました。

 この牓示と高札場があるところから吉野宿となり、街道の幅は二間(約3.6m)でした。

 宿の家並みに入って一町(約100m)ほど西へ進むと街道右手に本陣、そこから先に問屋場と脇本陣があり、街道左側に御料牓示が現れるところで家並みが終わります。

 吉野宿全体は南西向きの傾斜地で、街道の南側の斜面下(河岸段丘の下)に相模川が流れていました。

 本陣は名主吉野家で問屋を兼任。

 脇本陣は代々船橋家が世襲。

 脇本陣より一町(約100m)先を右へ道を入ると吉野神社があり、その道は奈良本集落へと続いていました。

 吉野本陣跡には古い土蔵が街道沿いに残っており、また「聖蹟の碑」が建てられています。

 その案内板に淡く木造の高層の建物が写っている古写真が掲載されているのですが、これが明治8年(1875年)に名主吉野十郎家が建造した木造5階建ての建物で、「五層楼」と呼ばれて街道を往来する旅人の注目を惹いていました。

 当時、五階建ての木造家屋が全国にどれほどあったかは知りませんが、よほど希少ではなかったかと思われます。

 どういう発想から建てたのか、またどれほどの経費をかけたのか、その財力はどこから出て来たのか、といったことを考えさせられました。

 「吉野宿ふじや」のあたりに「20 東京から68km」の標示。

 神奈中(神奈川中央交通)の「吉野」バス停を過ぎてしばらく進むと、沢井川に架かる吉野橋を渡りますが、その手前左手に「百万遍」や「廿三夜」と刻まれた石造物が並び、またその左側に「小猿橋」と記された案内板が立っていました。

 その案内板によると、「小猿橋」は現在の吉野橋よりやや南寄りにあったもので、長さ十四間(約25m)、幅二間(約3.6m)、高さ五丈八尺(約25m)の欄干付きの板橋であったという。

 この橋は、山梨県大月市の「猿橋」と工法も形も同じで、その規模が少し小さいことから「小猿橋」と呼ばれたとのこと。

 地元では、人馬通行橋銭(じんばつうこうきょうせん)の徴収、宿場の貸座敷や旅籠の飯売下女(めしうりげじょ)からの刎銭(はねせん)等を財源として架け替え工事を行っており、その際、八王子千人隊萩原頼母(たのも)を組長とする一部が工事中の警備・木材搬出の指揮に当たったとのこと。

 昭和8年(1933年)8月の吉野橋の完成に伴い、小猿橋、新猿橋(明治中頃に上流約500mの地点に建造された橋)は消滅したとあるから、昭和8年までこの「小猿橋」は沢井川に架かっていたことになります。

 その案内板に掲載されている絵は「小猿橋及金亀岩」で、『新編相模国風土記稿』の挿絵。

 小猿橋の下に流れている川が沢井川で、その沢井川は相模川に流れ込んでいます。

 文化7年(1810年)の『官遊紀勝峡中行』(西園)によれば、「吉野宿より坂を下ると谷川があって橋が架けられているが、これも猿橋に似ているので小猿橋という」とあり、吉野宿を出て坂を下って行ったところにこの「小猿橋」が掛かっていたことがわかります。

 この「小猿橋」が架かる沢井川は、吉野宿と小渕村との境であり、「小猿橋」を渡ると小渕村になりました。

 「小猿橋」を渡って西北に延びている街道を進むと、すぐ右手に御料牓示があって街道両側に家並みが続きますが、これが小渕村藤野集落。

 現在ここにJR藤野駅があります。

 藤野集落を過ぎるとやがて関野宿が現れました。

 宿の入口に街道を横切る2つの土橋があり、左手に高札場があったという。

 

 続く

 

〇参考文献

・『藤野町史 通史編』(藤野町)

・「明治初年の吉野駅とその周辺」沼謙吉(『ふじの町史研究誌』所収)

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