鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

中江兆民の恩師細川潤次郎の写真

2006-09-01 20:42:46 | Weblog
 土佐勤王党による吉田東洋(元吉)暗殺事件については、すでに触れました。

 吉田東洋(1816~1862)という人については、『吉田東洋』平尾道雄(吉川弘文館・1990)に詳しいのですが、高知県の人にはそれなりに知られていても、全国的に知られている人物ではないようです。
 日本史の教科書にもまず名前が出てくることはないでしょう。
 かく言う私も、幕末の土佐に興味を持つようになるまでは知らない人物でした。

 先ほど触れた『吉田東洋』においては、その本の裏表紙に次のように書かれています。

 「明治維新を導いたかくれた人物、吉田東洋は案外知られていない。藩政改革の主柱として、藩営専売仕法の実施などにより、土佐藩を西南雄藩の一つたらしめた彼の生涯は、幕末史における特異な存在として、いま新しく見直すべきであろう。」

 吉田東洋は、その非凡の才能を土佐藩第十三代藩主山内豊熙(やまうちとよてる・1815~1848)に見出され、弘化二年(1845年)八月に、「時事五箇条」と題する建白書を豊熙に提出しています。

 第一に、治国(ちこく)の本(もと)は有司の人選を根本とすべきこと。
 第二に、法令を簡素にして賞罰を重んずること。
 第三に、冗費(じょうひ・無駄な費用)冗官(じょうかん・無駄な役職や役人)を淘汰     (とうた)すべきこと。
 第四に、荒政(こうせい・飢饉)に備(そな)うべきこと。
 第五に、海防を厳にすべきこと。

 家柄にこだわらずに広く人材を登用し、その実績をきちんと評価し、無用の支出や無駄な役職は廃し、飢饉や海防に備えるべきだ、といった内容になるでしょうか。

 その東洋の才能は、第十五代藩主山内豊信(とよしげ・容堂・1827~1872)にも見出され、参政として藩政改革を推進することになります。

 彼の思想の影響を受けたり、登用されて藩政改革を担った人物としては、後藤象二郎(しょうじろう・東洋の妻の甥・1838~1897)・乾退助(いぬいたいすけ〔板垣退助〕・1837~1919)・福岡藤次(孝弟〔たかちか〕・1835~1919)・岩崎弥太郎(1834~1885)・間崎(まざき)哲馬(滄浪〔そうろう〕・1834~1863)など錚錚(そうそう)たるメンバーを挙(あ)げることが出来ます。

 安政四年(1857年)から文久二年(1862年・四月に暗殺される)までの四年余の、彼がリーダーシップをとった藩政改革においては、格式制度の簡素化・芸家制度(文芸・武芸の世襲化)の廃止・藩校文武館の設立・『海南法典』の編纂(へんさん)・国産仕法の強化・倹約の徹底などが行われます。

 この改革は豊信(とよしげ)や第十六代藩主豊範(とよのり・1846~1888)の支持を受けて強力に推進されますが、その門閥(もんばつ)打破の姿勢は藩内保守門閥派の反発を引き起こすとともに、その公武合体志向は、武市半平太(たけちはんぺいた・1829~1865)を盟主とする土佐勤王党(坂本龍馬〔1835~1867〕もこれに属しています)の憎むところとなり、ついに暗殺されることになりました。

 城下西外れの雁切橋(がんきりばし)近くの河原(梟首〔きょうしゅ〕場)にその首が晒(さら)され、城下の人々に大きなショックを与えたことは、前に触れたところです。

 この吉田東洋の一連の改革の中で、中江兆民に直接関係するのは、藩校文武館の開設でしょう。

 この藩校は、吉田東洋が暗殺される三日前の文久二年(1862年)四月五日に開館式が行われますが、当時数えで十六歳の兆民(篤助)はこの開館式に参加しているはずです。

 足軽という下士(かし・下級武士)出身の兆民が、藩校文武館に入れたのは、門閥を打破して有能な人材を登用するという東洋の改革があったからこそであり、そういう意味では、後の自由民権思想家中江兆民は、吉田東洋なしには生まれなかったと言えるでしょう。

 文武館は、高知城本丸西側の土地に造られ、伴宮(はんきゅう)・時習(じしゅう)寮・養正(ようせい)寮・兵学寮・天学寮・洋学寮・演武館・馬場・弓場・射撃場が設けられ、また司務庁(しむちょう・事務室)も置かれて文武教育が推進されました。

 この文武館に入った兆民が大きな影響を受けた教官に、「蕃学教授」の細川潤次郎(1834~1923)と助教の萩原三圭(さんけい・1840~1894)がいます。

 細川潤次郎も萩原三圭も有名ではありませんが、どちらも重要な人です。

 細川潤次郎については、『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館)に名前が出ています。

 高知城下南新町に天保五年(1834年)に生まれていますから、兆民よりも十三歳年長。先に名前が出て来た岩崎弥太郎・間崎哲馬・岩崎馬之助(1834~1887・岩崎弥太郎の従兄弟〔いとこ〕)とともに、「土佐の四神童」と称せられるほど、幼少時から優秀でした(岩崎弥太郎を加えず、細川と間崎と岩崎馬之助を「土佐の三奇童」と呼んだこともあるようです)。

 長じてから長崎に留学(安政元年〔1854年〕)して、そこで蘭学と高島流西洋砲術を学びます。安政四年(1857年)に長崎より高知に帰国し、蘭語(オランダ語)を教えます。

 南新町の自宅の床の間に、長崎で購入した西洋の革靴(かわぐつ・「ブーツ」)を飾っていたといいます。

 藩医の子であった萩原三圭は、この細川から蘭語を学んでいます。

 安政五年〔1858年〕、藩命で江戸留学を命ぜられ、江戸へ出た細川は、築地(つきじ)南小田原町の軍艦操練所で航海術を学び、また藩主豊信(容堂)の命令で、そこで教授をしていた中浜万次郎(「ジョン・万次郎」・1828~1898)から英語を学びます。

 二人の付き合いは極めて親密で、咸臨丸(かんりんまる)で太平洋を横断してサンフランシスコに出かけた中浜万次郎は、福沢諭吉(1834~1901)と一緒にサンフランシスコの本屋でウェブスターの『英語辞典縮刷版』(1859刊)を購入しているのですが、それを「友人であり、同郷人」である細川に贈っています。

 また万次郎がサンフランシスコから持ち帰った「ミシン」で、万次郎と細川が一緒に縫い物をするようなこともあったらしい。

 文久元年(1861年)に、藩が購入した外輪型蒸気船「上海(しゃんはい)号」で自ら航海長になって江戸から帰国。浦戸湾に乗り付けて、蒸気船というものを知らない高知城下の人々の耳目(じもく)を驚かします。

 帰国した細川は、藩の法律改革に取り組むとともに、容堂や吉田東洋の意を受けて、藩の教育改革にも取り組みます。藩校文武館を設立していく上で大きな役割を果たしたのはこの細川であったようです。

 しかし吉田東洋が暗殺されて藩の状況が一変すると、再び江戸に出た細川は、洋式汽船の不可欠を藩主豊範(とよのり)に建議し、横浜に赴いて蒸気船購入のために奔走します。

 国元における土佐勤王党の弾圧によって藩内の状況が変わると、藩が購入した軍艦「南海丸」(スクリュー型蒸気船)に乗って高知に帰国。浦戸湾に入って、またまた高知城下の人々を驚かせます。

 藩校文武館の洋学教授に復帰した細川は、生徒たちに蘭語と英語を教えます。

 飛鳥井雅道(あすかいまさみち)さんは、『中江兆民』(吉川弘文館・1999)で、

「土佐は、蘭学については他藩にかなりの遅れをとったが、英学は中浜万次郎、細川潤次郎によって、一歩先んじて始まったといってよいかもしれない」

 と言われています。

 兆民は、文武館で細川と萩原から、英語(細川)と蘭語(細川・萩原)を学びます。

 私は、中江兆民の才能を見抜き、慶応元年(1865年)に兆民を藩費留学生として長崎に派遣したのは、この細川であったと考えています。さらに、兆民にフランス語を学ぶように指図(さしず)したのも、この細川であったと考えています。

 その理由や事情については、『波濤の果て』第一巻で書いてあります。

 すなわち、細川がいなければ、後の「東洋のルソー」中江兆民は誕生しなかったに違いない。

 『波濤の果て』では、この細川潤次郎がしばしば顔を出します。第三巻でも出てきますし、次の第四巻でも登場する予定です。

 この歴史小説を書きながら、細川とはこういった人だろう、こういう容貌であったろうと、推測しながら人物を描いてきたのですが、つい最近、この細川の顔写真を思いがけなく目にすることが出来、「そうか、こういう顔だったのか!」と、感慨を新たにしたことがありました。

 細川の顔写真が載っていたのは、前に紹介した『明治の若き群像 森有礼(ありのり)旧蔵アルバム』犬塚孝明・石黒敬章(平凡社・2006)です。

 そう、吉田東洋を暗殺した犯人の一人、大石団蔵の写真が載っていた書物。

 そのP47の右上に写真が掲載されています。

 解説には、

 「土佐藩に生まれ、長崎で蘭学、兵学を学ぶ。江戸では中浜万次郎に英語を学ぶ。明治4年米国に留学、森にはその際会ったと思われる。」
 
 と書かれています。

 目元涼しく、口は横一文字でやや大きい。顎(あご)はやや細め。ちょび髭をはやし、髪にはウェーブがかかっている。首には蝶ネクタイをしています。全体的に聡明さをうかがわせる容貌で、意思の強さが伝わってきます。この洋装の細川に、ちょん髷(まげ)を付け、ちょび髭をなくせば、文武館時代の洋学教授細川潤次郎になるでしょう。
  
 この細川が、兆民の恩師の一人だったのです。

 では、今日はこの辺で。

 ついつい長い文章になりましたが、次回も、お付き合いいただけるとうれしいです。

◇文中で紹介した本以外の参考文献

・『中江兆民評伝』松永昌三(岩波書店・1993)
・『私のジョン万次郎 子孫が明かす漂流150年目の真実』中浜博(小学館・1991)

※写真は『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』犬塚孝明・石黒敬章(平凡社)P47より
    

                                   鮎川 俊介


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