「浄運寺」の境内に入ると、「群馬県指定重要文化財」 谷文晃筆 孔雀牡丹図 酒井抱一筆 秋草花卉図」および「桐生市指定重要文化財 浄運寺安土宗記録」と記された案内板を見つけました。
これらは浄運寺(浄土宗)が所蔵する寺宝であるようです。
谷文晁と酒井抱一の絵は、裏書によると、江戸神田佐久間町の商人伏見屋が所蔵していたものを、佐羽家が買い取ったものといわれるとのこと。
この「佐羽」家というのは、崋山の『毛武游記』にも登場します。
「佐羽蘭渓」という人物がしばしば登場し、また、「佐羽清左衛門」という名前も出て来ます。
この桐生の町は、出羽松山藩二万五千石(酒井家)の分領であり、「佐羽清左衛門」すなわち「佐羽本家」の「佐羽清右衛門」が、町方代表としてこの桐生を治めていたようです。
この「佐羽本家」は桐生新町で織物買次商を営んでいたという。
また「佐羽蘭渓」は、「佐羽吉右衛門(淡斎)」の弟であり、やはり桐生新町で織物買次商を営んでいました。「佐羽清助」がその本名。
「佐羽吉右衛門」は、「佐羽本家」の分家であるのかも知れない。「佐羽一族」というのが桐生新町にはいて、かなり有力な一族であったものと思われます。
本家も分家も、「織物買次商」として財を成しているようです。
この案内板からは、この谷文晁と酒井抱一の二図を買い取った「佐羽家」が、本家なのかその分家なのかはわかりませんが、江戸の商人が所蔵していたものを買い取るだけの財力が「佐羽家」にはあったことを示しています。
天保2年(1831年)10月19日、蘭渓佐羽清助と親しくなっていた崋山は、蘭渓の招きで、桐生の町中からやや離れた「鮫屋市右衛門」というものが営む「酒楼」で飲食をし、その後、蘭渓の家に立ち寄ってその蔵書を見せてもらっています。
土地を代表する文化人の一人でもあったのでしょう。
崋山は、この蘭渓および奥山昌庵という医者とともに足利へ赴き、足利学校を訪ねてもいます(10月22日)。
浄運寺を出て、通りをしばらく進むと、「産業観光 まちづくり大賞金賞 ようこそ桐生市へ!」と記された横断幕が掛かるJR両毛線の高架を潜りました(8:16)。
そしてすぐ左手に現れた金融機関が「横浜銀行」。
織物や養蚕の町、桐生と横浜の深いつながりを伺い知ることができました。そのつながりは、もちろん幕末の「開国」以後のことになるでしょう。
交差点を過ぎ、左手に見えてきた4階建てのややレトロな鉄筋コンクリートのビルは、「金善ビル」というらしい。
右手の「おうみや書店」の前を過ぎ、「本町4丁目」交差点を過ぎたのが8:22。
右手の店舗のシャッターに、「桐生八木節まつり」のポスターが貼られており、8月3日から5日の3日間が、その「八木節まつり」の期間であるとのこと。
やはり通りの右手に、「東小路」(あづまこうじ)と刻まれた古い石の道標を見つけました。
案内板によると、大正時代の初め頃までは、三丁目(本町三丁目)地内では、この東小路だけが本町通りと東裏通りを結ぶ唯一の横通りであったといい、大正時代頃までの町の様子は、現在のそれとはかなり異なっていたこと(あたりまえのことですが)をうかがい知ることができました。
「本町3丁目」交差点を過ぎ、まもなく右手に「プロムナード3番街駐車場」の入口が見えてきました。入口付近には「根精大明神」を祀る祠がありました。
「桐生本町一、二丁目まち歩きマップ」によると、この駐車場の北側に、「矢野本店」と「酒屋小路」を隔てて南側に位置する(南隣)、岩本家があったことになります。
あとで手に入れた「素敵・体験 桐生まちなか地図」には、その「酒屋小路」は、「近江辻(子)小路」と記載されており、かつてはこの「小路」は「近江屋ズシ」と呼ばれていたらしいことは、『毛武と渡邉崋山に関する新研究』(眞尾源一郎)に記述されていることでした。
『毛武游記』10月13日の項に、崋山は、「近江屋喜兵衛手代善助来る。これは造酒屋なり。かたはら味噌、醤油、質とりて業とす。本店ハ近州日野にて水口侯の領なり。店も大きやかなる家に土蔵巨大なるあり。人五十人ばかりもつかふべし」と記しています。
この屋号「近江屋」を持つ「矢野家」は、酒造業を営むとともに、味噌・醤油の醸造業も行い、また質屋もやっていたらしい。土蔵も巨大であり、従業員が五十名ほどもいたと崋山は記しています。近江の日野に本店を持つ近江商人であったようです。
隣家の岩本家に、江戸から親戚であるという武士がやってきたことを知った矢野家は、手代である「善助」を挨拶に遣わしたというのです。
続く
○参考文献
・『毛武と渡邉崋山に関する新研究』眞尾源一郎(非売品)
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)
これらは浄運寺(浄土宗)が所蔵する寺宝であるようです。
谷文晁と酒井抱一の絵は、裏書によると、江戸神田佐久間町の商人伏見屋が所蔵していたものを、佐羽家が買い取ったものといわれるとのこと。
この「佐羽」家というのは、崋山の『毛武游記』にも登場します。
「佐羽蘭渓」という人物がしばしば登場し、また、「佐羽清左衛門」という名前も出て来ます。
この桐生の町は、出羽松山藩二万五千石(酒井家)の分領であり、「佐羽清左衛門」すなわち「佐羽本家」の「佐羽清右衛門」が、町方代表としてこの桐生を治めていたようです。
この「佐羽本家」は桐生新町で織物買次商を営んでいたという。
また「佐羽蘭渓」は、「佐羽吉右衛門(淡斎)」の弟であり、やはり桐生新町で織物買次商を営んでいました。「佐羽清助」がその本名。
「佐羽吉右衛門」は、「佐羽本家」の分家であるのかも知れない。「佐羽一族」というのが桐生新町にはいて、かなり有力な一族であったものと思われます。
本家も分家も、「織物買次商」として財を成しているようです。
この案内板からは、この谷文晁と酒井抱一の二図を買い取った「佐羽家」が、本家なのかその分家なのかはわかりませんが、江戸の商人が所蔵していたものを買い取るだけの財力が「佐羽家」にはあったことを示しています。
天保2年(1831年)10月19日、蘭渓佐羽清助と親しくなっていた崋山は、蘭渓の招きで、桐生の町中からやや離れた「鮫屋市右衛門」というものが営む「酒楼」で飲食をし、その後、蘭渓の家に立ち寄ってその蔵書を見せてもらっています。
土地を代表する文化人の一人でもあったのでしょう。
崋山は、この蘭渓および奥山昌庵という医者とともに足利へ赴き、足利学校を訪ねてもいます(10月22日)。
浄運寺を出て、通りをしばらく進むと、「産業観光 まちづくり大賞金賞 ようこそ桐生市へ!」と記された横断幕が掛かるJR両毛線の高架を潜りました(8:16)。
そしてすぐ左手に現れた金融機関が「横浜銀行」。
織物や養蚕の町、桐生と横浜の深いつながりを伺い知ることができました。そのつながりは、もちろん幕末の「開国」以後のことになるでしょう。
交差点を過ぎ、左手に見えてきた4階建てのややレトロな鉄筋コンクリートのビルは、「金善ビル」というらしい。
右手の「おうみや書店」の前を過ぎ、「本町4丁目」交差点を過ぎたのが8:22。
右手の店舗のシャッターに、「桐生八木節まつり」のポスターが貼られており、8月3日から5日の3日間が、その「八木節まつり」の期間であるとのこと。
やはり通りの右手に、「東小路」(あづまこうじ)と刻まれた古い石の道標を見つけました。
案内板によると、大正時代の初め頃までは、三丁目(本町三丁目)地内では、この東小路だけが本町通りと東裏通りを結ぶ唯一の横通りであったといい、大正時代頃までの町の様子は、現在のそれとはかなり異なっていたこと(あたりまえのことですが)をうかがい知ることができました。
「本町3丁目」交差点を過ぎ、まもなく右手に「プロムナード3番街駐車場」の入口が見えてきました。入口付近には「根精大明神」を祀る祠がありました。
「桐生本町一、二丁目まち歩きマップ」によると、この駐車場の北側に、「矢野本店」と「酒屋小路」を隔てて南側に位置する(南隣)、岩本家があったことになります。
あとで手に入れた「素敵・体験 桐生まちなか地図」には、その「酒屋小路」は、「近江辻(子)小路」と記載されており、かつてはこの「小路」は「近江屋ズシ」と呼ばれていたらしいことは、『毛武と渡邉崋山に関する新研究』(眞尾源一郎)に記述されていることでした。
『毛武游記』10月13日の項に、崋山は、「近江屋喜兵衛手代善助来る。これは造酒屋なり。かたはら味噌、醤油、質とりて業とす。本店ハ近州日野にて水口侯の領なり。店も大きやかなる家に土蔵巨大なるあり。人五十人ばかりもつかふべし」と記しています。
この屋号「近江屋」を持つ「矢野家」は、酒造業を営むとともに、味噌・醤油の醸造業も行い、また質屋もやっていたらしい。土蔵も巨大であり、従業員が五十名ほどもいたと崋山は記しています。近江の日野に本店を持つ近江商人であったようです。
隣家の岩本家に、江戸から親戚であるという武士がやってきたことを知った矢野家は、手代である「善助」を挨拶に遣わしたというのです。
続く
○参考文献
・『毛武と渡邉崋山に関する新研究』眞尾源一郎(非売品)
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)
人様のブログにコメントを入れるのが初体験なので、これでちゃんと届くのかわかりません(笑)。
実は、私の母の旧姓は佐羽(さば)です。
私の実家(とは言っても借家)は、矢野本店の脇の路地を入ったところ、仲町一丁目です。
母からは、佐羽家は明治の頃に破産して潰れてしまった、としか聞いておりません。
そもそも、佐羽(さば)という苗字もかなり変わってますが、残念ながら母の代が三姉妹で、全員嫁いでいるので、佐羽の名前も絶えてしまいそうです。
母(長女)の長男として、せめて自分が生きている間は、桐生・浄運寺にある佐羽家の墓参りだけは、時々行こうと思っております。
たまたまネット上でこのブログと出会い、我が祖先の名前があったのでとてもうれしく思い、コメントさせていただきました。
ありがとうございました。
吉田 排
崋山が桐生新町で親しく交わった人物として佐羽(さば)蘭渓(清助)なる人物が出て来ます。
『渡辺崋山集』の頭注によると、この蘭渓は佐羽吉右衛門(淡斎)の弟であり、朝川善庵に儒学、大窪詩仏に漢詩を学び、桐生詩社の盟主となった、とあります。 桐生新町で織物買次商を営んだとあり、書上家や玉上家、崋山の妹の嫁いだ岩本家などと同様、絹織物買継商で大きな利益を上げていた商人であったと思われます。
兄の佐羽淡斎についても、頭注に、桐生新町の織物買次商初代吉右衛門の養嗣子で、薄利多売の商法で繁昌.。詩(漢詩)をよくし淡斎と号し、小倉丘に別荘十山亭を建て、全国各地に自作の詩碑十基を建立。また江戸歌舞伎の中村・猿若・市村三座の元締だったとも記されています。
松山藩上州分領の領分取締役をつとめた佐羽清右衛門家は本家にあたる、とも記され、佐羽本家およびその分家は、桐生新町の有力者の中でも特に有力な一族であったことがわかります。
矢野本店の近くの仲町に実家があったとのこと、あの矢野本店の南側の路地沿いあたりに岩本家があったということで、「近江屋ズシ」を歩いたことと、そのあたりの風景を思い出しました。
200年以上の歴史が経過しており、岩本家と同様、佐羽家も、蘭斎以降さまざまな有為転変があったものと、コメントを読んで感慨を新たにしました。
今後とも、よろしくお願いします。
鮎川 俊介