鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

北前船を追う-松前と江差 番外編その3

2017-06-18 07:24:44 | Weblog

 

〔写真は龍雲院所蔵の絵馬〕

 最上徳内(もがみとくない・1754~1836)が天明5年(1785年)からの蝦夷地調査をもとに、天明8年(1788年)に野辺地(のへじ)の廻船問屋である島谷家でまとめたのが『蝦夷草紙』および『蝦夷草紙別録』。

 この『蝦夷草紙別録』は『松前町史 史料編第三巻』(松前町)に掲載されており、『蝦夷地御用内密留(抄)』(これは最上徳内ではない)とともに、松前藩や松前に出店を持つ近江商人について、また松前藩の財政事情などについて知る基礎資料になっています。

 それを見ると、天明6年(1786年)時点での松前・箱館などの場所請負商人の名前、その請負場所、だれの給所(松前藩主から家臣に知行地として与えられた場所)であるかが(その場所のアイヌの乙名などの名前も含めて)記されています。

 たとえば、「松前熊野屋新右衛門 ユウバリ場所 松前監物給所」「松前天満屋三四郎 サッポロ場所 目安(谷か)才右衛門給所」「松前大和屋弥兵衛 ヲタルナイ場所 氏家新兵衛給所」「飛州益田郡湯之嶋村飛騨屋久兵衛 クスリ場所 アツケシ場所 キイタップ場所 クナシリ場所 領主御納戸」といったように。

 ここで注目されるのは「領主」(松前藩主)の「御納戸」(藩主直領地)がクスリ(後の釧路)、アツケシ(厚岸)、キイタップ(霧多布)、クナシリ(国後)であり、その場所請負人が松前や箱館の商人ではなく、「飛州益田郡湯之嶋村」の「飛騨屋久兵衛」であること。

 実は「ソウヤ場所」(ソウヤは後の宗谷)も「飛州飛騨屋久兵衛」となっています。

 天明6年時点における各地の人口はと言えば

 松前4000人、江差3115人、箱館2278人、熊石602人、上之国64人など。

 「松前土人」(アイヌ)の人口、2万352人。

 「旅商人船頭水主諸職人」の人口、2万1000人。

 米や大豆、小豆、酒、塩、煙草などがどこの国から入って来ているかも記されています。

 どういう商品が近江・美濃・能登諸国の出店で売られているか。

 「千石船」が、どういう積荷の内容や積荷の割合で出入り(出船・入津)し、その数はどれほどであったか。

 ちなみに1年間の出船の船数は383艘余で、入津の船数は113艘余。

 「壱番舩」「弐番舩」「三番舩」 の入って来る時期。それぞれがどこの国から入ってくるか。それぞれの船の大きさはいかほどか。

 松前から搬出される蝦夷地の産物や「長崎御用荷物」(長崎俵物)の内容も記されています。

 最上徳内は、松前藩の厳しい警戒の中、どのようにしてこれらの情報を集めたのか。その調査能力に驚嘆します。

 最上徳内は天明5年から6年にかけて蝦夷地を調査しています。そして天明7年7月にはロシア密航の企てを隠して単独で松前に上陸し、松前家の菩提寺である法幢寺(ほうどうじ・曹洞宗)の秀山和尚に弟子入りを願って企てを果たそうとするものの、正体が発覚して松前を追放されたという。

 その翌年(天明8年)、野辺地(のへじ)で酒造業と廻船問屋を営む島谷清吉(この妹のふでと徳内は結婚する)家で『蝦夷草紙』『蝦夷草紙別録』をまとめているから、天明5年から6年、および7年の調査結果を徳内はまとめたことになります。

 詳しい内実を外部に知られたくない松前藩にとって、最上徳内はきわめて危険な人物であったと言えるでしょう。

 

 続く

 

〇参考文献

・『松前町史 史料編第三巻』(松前町)

・『私の徳内紀行』菊地栄吾

『本』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 北前船を追う-松前と江差 ... | トップ | 北前船を追う-松前と江差 ... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL