鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

北前船を追う-松前と江差 続編その12

2017-07-01 06:36:31 | Weblog

 

 翌早朝、ホテルを出て鷗島に向かいました。

 「開陽丸青少年センター」と「開陽丸」を左手に見て、鷗島の手前で車を停めました。

 「開陽丸青少年センター」の向こう側(西側)は「江差港マリーナ」になっていて、右手(東側)の海岸部は江差港やフェリーターミナルなどの港湾施設になっています。

 この港湾施設がある右手の海岸部が、かつて「はね出し」のある倉庫が海岸にそってびっしりと並んでいたところ。

 車を停めた鷗島手前の砂浜は「えびす浜海水浴場」。

 夏ともなれば、「開陽丸」や鷗島を見ながら海水浴を楽しむ人々で賑わう浜辺であるようです。

 この「開陽丸青少年センター」や「江差港マリーナ」、「えびす浜海水浴場」などがある陸地はもともとは海であり、埋め立てられて出来上がった土地。

 鷗島を正面に見て右手には赤い鳥居があり、その赤い鳥居の右手奥に「瓶子岩(へいしいわ)」が海面に突き出ていて、その赤い鳥居と瓶子岩の向こうの鷗島の海岸に沿って比較的新しい遊歩道が延びています。

 近付いていくと「桧山道立自然公園 瓶子岩」の看板があり、それに「瓶子岩」と、「厳島神社と瓶子岩鳥居」についての説明がありました。

 そのうち「厳島神社と瓶子岩鳥居」によれば、鷗島上に建立された厳島神社は慶長20年(1615年)に創建されたと伝えられるもので、航海安全・大漁祈願の神として船乗りたちに信仰されてきたとのこと。

 また赤い鳥居は厳島神社建立400年を記念し、厳島神社と瓶子岩を望む方角に建立されたものだという。

 つまり赤い鳥居はかつてはなかったもので、鷗島上には厳島神社が江戸時代初期から鎮座し、船乗りたちの信仰を集めていたということです。

 「かもめ遊歩道」の入口から瓶子岩のシルエットを見ると、まるで左手方向を眺める女性の首と頭のようにも見え、この瓶子岩は、江差に諸国からやって来た北前船の船乗りたちにとってかなり印象的な岩であったのではないかと思われました。

 同時に、江差の沖合に浮かぶ台地状の鷗島(弁天島)も、その形状と船が密集する風景から(日本海の風波を避ける好適地)、彼らにとって印象的なものであったのではないかと思われました。

 「かもめ遊歩道」をしばらく歩いてから江差の町を眺めると、左右に延びる海岸段丘の下の町並みと、その海岸段丘の上に左右に延びる町並みが見えました。

 往時の古写真から考えると、北前船の船上からは「はね出し」が海岸に沿ってびっしりと並ぶ江差の町の景観を眺めることができたはず。

 左手の鷗島の崖は茶褐色の岩盤が露出しています。

 浜辺も平たい岩盤であって、その岩には人工的な正方形の穴が開けられており、またその穴から半ば朽ちた棒杭が突き出ています。

 また岩の露出した崖の下にも、人工的な四角や丸の穴が並びます。

 崖の下の平たい岩浜にも、かつて何らかの木製の構造物があったものと思われました。

 「かもめ遊歩道」の橋が終わって、その先へと進むと、岩が平面となって広く露出したところがあり、その先で釣り人が数人集まって魚釣り(ブリ)をしていました。

 その岩浜から鷗島を望むと、巨大な岩が露出して迫力ある姿を見せています。

 つまりこの鷗島は大きな岩で出来た島であり、日本海の押し寄せる荒海によって浸食された岩浜が特徴的な島。

 その露出した巨大な岩の上へと遊歩道は階段になって延びています。

 その階段状の遊歩道を上がりきったところに広がった風景は、なだらかな起伏を見せる平原であり、その平原の向こうに朝日を浴びた日本海が広がっていました。

 まず目に入ってきた案内板には「テカエシ台場跡」とあり、江戸時代の後期、諸外国の船が日本近海に現れ始め、幕府や諸藩は海岸線に台場(大砲を備える場所)を設けたとあり、鷗島には北にテカエシ台場が、南にキネツカ台場が設けられたとありました。

 平原になっていて北方向の日本海が遮るものなしに一望に見渡せる場所であり、確かに台場の適地であると思われました。

 平原の西側(日本海側)に沿って遊歩道を進むと、眼下に先ほどよりも広い岩浜が見え、「千畳敷」の案内板がありました。

 それには『江差屏風』に描かれた鷗島の千畳敷の部分が載せられていて、赤い毛氈の敷物を敷いて、桜を持ち込んで宴(うたげ)を催している人々の姿があります。

 岩浜には小舟が寄せられているから、江差の町から小舟に乗ってやって来た人々であるに違いない。

 敷物を運び、花が咲いた桜の木を運び、また酒肴の入った弁当などを運んで酒宴を楽しむことが出来る江差の人々と言えば、やはり裕福な商家の主人たちであると言えるでしょう。

 「関川家別荘」の蔵には、「遊山弁当(ギヤマン酒入付)」や「野外膳」、「ひさご」「花見弁当」などが陳列してありましたが、江差の裕福な町人たちは、桜が咲く時期ともなればこの鷗島の千畳敷に小舟でやって来て、日本海と鷗島の岩場などを眺めながら親しい者たちと宴を催すこともあったのです。

 さらに平原の際を進んでいくと、行く手に白亜の灯台が見えて来ました。

 それが「鴎島灯台」でした。

 

 続く

 

 

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