鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-笹子峠~甲府まで その7

2017-10-02 06:52:58 | Weblog

 

 『山梨県史資料編』に「西村又右衛門 同倅又兵衛」が記した史料が収められています。

 これにより、天保7年(1836年)から翌8年にかけての、国中(くになか)から郡内に入ってくる米1駄の相場の推移を見ることができます。

 天保7年の春まで…1両1分1朱で固定

 天保7年の10月(旧暦)まで…2両1分

 天保8年の8月5日頃より…3両と銀10匁

 天保8年の8月15日…2両1分3朱

 天保8年の8月30日頃…1両3分と銀2匁

 ちなみに天保7年の3月19日における相州久保沢の米1駄の相場は3両3分2朱。

 相州勝瀬(かつせ)における天保8年6月30日の米1駄の相場は4両であったとも記されています。

 これに『並崎の木枯』に記されている米1駄の相場を加えてみると、天保7年8月12、3日頃までは米1駄1両3分2朱で、その直後にいきなり2両1分になりました。

 天保7年8月中旬にいきなり2両1分となり、それはその年10月まで続き、その後さらに高騰していき、天保8年の夏ごろ(6月から8月初旬にかけて)に最高値(3両以上)となり、その後急激に下がって8月の暮れには天保7年8月中旬までの水準になったことがわかります。

 西村又右衛門・又兵衛の史料には、米1駄2両1分に上がったことを記した後に、「右ニ付(つき)騒動相起(あいおこり)…」としており、『並崎の木枯』における駒飼宿での頭取と郡中惣代との交渉の内容からも、米相場が1駄2両1分にいきなり引き上げられたことが「天保騒動」の契機になったことが推測されます。

 「一駄」とは、馬1頭に背負われる荷物のことであり、米俵の場合「一駄ニ俵」が基準でした。

 つまり馬1頭が両サイドに1俵ずつ、計2俵の米を運んだことになります。

 1俵の重さはおよそ60キログラム。

 従って1駄(2俵)はおよそ120キログラム。

 これは米8斗ほどに相当します。

 米8斗は0.8石(1石は10斗)。

 米1駄2両であれば、1石は2.5両となります。

 普通は、金1両で1石が購入できたというから、天保7年の8月中旬からは1石を購入するためには2.5両以上を出さなければならなくなったことになります。

 天保7年8月の中旬、米1駄の値段が普通の時よりも2.5倍以上になったことがわかります。

 米1駄2両として、それは現在の値段でどれぐらいであったかというのは難しい換算ですが、『百姓たちの江戸時代』(渡辺尚志)の数字を参考にすれば、1両が5万5千円として米1駄は11万円となります。

 『甲陽乱妨記』によれば、郡内一揆勢の頭取武七は「今日より弐百俵ツヽの米を郡内へ差送(さしおく)」るようにと駒飼宿の村役人に要求しています。

 米200俵とは米100駄ということになり、100頭の馬で米200俵を郡内に米を送るようにと要求したことになります。

 米100駄は、現在の値段に換算すると1100万円。

 これが毎日のことであるとすると(「弐百俵ツ丶」)、1日に1100万相当のお米が、馬100頭で国中(くになか)から郡内へ笹子峠を越えて運ばれていくことになり、10日間では1億円以上、1カ月では3億円以上となり、これは大変な物流であるということになります。

 米の国中(くになか)から郡内への米の運送は平常の時であっても相当な物流であり、その運送に関わる人々の「稼ぎ」にも大きく関係していたであろうことが推測されます。

 笹子峠を間にした甲州街道の東西の宿場、つまり白野(しらの)・阿弥陀海道・黒野田、そして駒飼・鶴瀬などの宿場やその近くの宿場や村々の人々(主に男たちの働き手)にとって、大量の米の運送に関わる仕事(馬子・人足・駄賃稼ぎ)は、現金収入を得る手段として大きなウェイトを占めていたであろうと思われます。

 米1駄がいきなり2両1分に跳ね上がり、郡内側がその値段では購入できないとして米の搬入が滞る状況になった時、米の運送等に関わっていた男たちが現金収入(駄賃稼ぎ)を失って、その生活がさらに貧窮化したことも容易に推測されるところです。

 元凶は米1駄を2両1分でないと売らないとした熊野堂村の奥右衛門であると見なされ、郡内道中筋の百姓たちが「一揆」に立ちあがり、笹子峠を越えて国中(くになか)の駒飼宿に至ったところが初鹿野村の村人たちが「加勢」し、さらにその先々からは街道筋の宿場やその周辺の村人たちが加わって、国中一帯において大規模な「打ちこわし」が展開されていくことになるわけですが、その一揆勢の中には、駒飼宿の人足たちが一揆勢に加わったことからもわかる通り、甲州街道筋で運送に関する仕事に携わる男たち(馬子・人足・駄賃稼ぎ)の姿も数多く見られたものと思われます。

 しかし、先ほどの史料に見られたように「米一駄二両一分」という相場は、「相場」である以上熊野堂村の奥右衛門が一人で勝手に決めたものだとも思われません。

 確かに奥右衛門は『大月市史通史編』によると、「郡内に米を送る大手の米穀商で、谷村の玉知屋をはじめ郡内の米穀商はおおかた彼から米を買い付けて」いました。

 しかもその建ち並ぶ米蔵には、2万俵とも6万俵とも言われる大量の米が保管されていました。

 だからと言って米の相場を奥右衛門一人が決定できるものではありません。

 『甲陽乱妨記』によれば、天保7年の夏(おそらく8月中旬頃)に、百姓たちが米穀値段の引き下げを谷村陣屋の役人に訴えた時、「米穀直(値)段之義ハ、時の相場を以(もって)取計(とりはから)ひの上ハ引下ヶ申義(ひきさげもうすぎ)不相成(あいならざる)旨…頭取の者入牢被仰付(おおせつけらる)」とあり、米穀値段は時の相場で定まっているから引き下げには応じられないと谷村陣屋の役人にはねつけられ、「愁訴」した村代表の者(頭取)は牢屋に入れられてしまったという。

 「時の相場」は奥右衛門一人で決められるものではなく、代官所(幕府勘定奉行の支配下にある)や各郡の郡中惣代(彼らは代官所側に立って米の安定した廻送〈廻米〉業務を主に務める)らによって決められていたのではないか。

 だから、奥右衛門宅などを「打ちこわし」たとしても、米の「時の相場」は簡単に引き下げられるものではなく、最初の史料に見られたように「天保騒動」が鎮圧(天保7年8月下旬)されてからも米(米一駄)の相場は上がり続けたのです。

 

 続く

 

〇参考文献

・『山梨県史資料編13 近世6上』

・『百姓たちの江戸時代』渡辺尚志(筑摩書房)

・『大月市史 通史編』

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