鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.5月「登戸そして二子・溝口」取材旅行 その最終回

2009-05-26 06:43:21 | Weblog
 『雛妓』に描かれている、かの子の父寅吉の葬列の場面はどういうものであるか。

 葬列は町の中央にある大貫家の門を出て、町を一巡りしました。その父の棺側を守る役の一人は、かの子の夫である一平(作中では「逸作」)でした。一平は、菅笠を被り、藁草履(わらぞうり)を履いて棺に付いて歩きました。

 二子の人々は、自分たちが何十年かにわたって「聖人」と渾名(あだな)して敬愛していた旧家の長老である寅吉のために、家先に香炉を備えて焼香しました。

 二子の町は、葬列の見物人の中に「脂粉の女」も混じって、一時祭りのような観を呈したほどでした。

 葬列は多摩川に架かる二子橋の方へと町並みの間を進みます。

 そして町外れを出た葬列は、多摩川に架かったコンクリート製の二子橋を眺め渡すことのできる堤防の地点で、しばし停まります。

 多摩川の川幅の大半を占めているのは小石が目立つ広い河原ですが、その広い河原には若草の叢(くさむら)の色が和(なご)みかけています。

 ここでなぜ葬列が停まったかと言えば、大正14年7月に竣工したこの橋(当時は木造)の架橋に尽力したのが、当時村長であった大貫寅吉であったから。「父が家霊に対して畢生の申訳に尽力して架した長橋」であったのです。その二子橋の完成までは、長らくこの多摩川の部分は「二子の渡し」と呼ばれて渡し舟による運送が行われていました。

 寅吉の棺は、しばらく堤防の上の若草の上にたたずみ、それから葬列は、町の中央にある菩提寺光明寺(大貫家の街道挟んだ真向かいの寺)へ向かって動き出しました。そこが大貫寅吉の葬儀の場でした。

 つまり葬列は、大貫家の門を出て、二子の町並みを多摩川の方へと向かい、堤防の上に上がってそこで一休みした後、そこから戻って大貫家の真向かいにある菩提寺光明寺の山門を潜ったのです。その葬列が通った二子の大山街道の道筋には芸者たちなども含む多くの見物人たちが集まっていました。

 この昭和11年(1936年)初頭の段階でも、二子の大山街道沿いの家並みは、まだその多くが茅葺きの民家であったと思われます。関東大震災後であって、建て直されたものもあれば倒壊せずに生き残っているものもあったことでしょう(昭和16年以後でも多摩川付近に茅葺き屋根の農家が点在していたことは、久地円筒分水の案内板に載っていた写真に見られた通り)。

 大正時代(二子橋架橋以前)、渡し場へ行く河原の両側には、松林・桃畑・桑畑に混じって、十数軒の家が建っており、「河原町」と呼ばれていましたが、その十数軒の家は、「菊屋」と呼ばれた「茶屋」であり、「朝日屋」と呼ばれた「そば屋」であり、また料理屋であり材木屋であり、人力車夫や船大工が居住する家でしたが、二子橋が完成すると、そういった家並みは渡し場のあった河原からはほとんど消えていったことでしょう。

 桃は多摩川流域の砂地の所に栽培され、梨は水田地帯に栽培されていました。「多摩川梨」の栽培は、江戸時代の初め頃から行われていたようですが、大正時代の終わり頃から関東地方における一大産地となり、東京の市場で有名になりました。有名な「長十郎」を初めとして、「二十世紀」「幸水」「豊水」などが栽培されていきました。

 養蚕も江戸時代から行われていましたが、盛んになったのは横浜開港以後のこと。二ヶ領用水が潤(うるお)した水田は、梨畑のほかに桑畑へと姿を変えていきました。

 桃は「多摩川水蜜」と呼ばれ、東京神田の市場に出荷されました。昭和初期が盛況であったという。梨は大正末期から昭和15年頃までが最盛期でした。

 この付近の、桃や梨などの果樹栽培は、大正から昭和の戦前までが最盛期であったようです。

 ということもあって、昭和の初め頃、この大山街道筋も活況を呈していて、「街道筋の店々は競争で朝早く店を開けたもの」で、「七時半頃には」店を開け、「早い時は七時頃」に店を開けたものだという(『二子・溝口宿場の民俗』)。

 また明治末から大正時代にかけては、「かぼちゃ、たけのこは大山街道を西へ行く」と言われたように、大田や目黒、世田谷・杉並などで生産された「かぼちゃ」や「たけのこ」などが、大八車に載せられて、ここに集まり、また多摩川の梨・桃、柿生の禅寺丸(柿)が府中街道を通ってここに集まりました。また東京からの糞尿を積んだ荷車の往来などもありました。

 かの子は、そういった風景も、大山街道筋に見ていたことと思われます。

 「参考・郷土資料室」で目にした一冊に、『川崎50年 小池汪写真集』というのがありましたが、そのあとがきに、「五十年前、川崎は丘陵の畑に立てばどこからも富士山や大山、丹沢山塊が見えた」とありましたが、今は、なかなかそういう景観は得られない。「丘陵の畑」そのものが、もうあまり見られなくなっているのです。


 終わり


○参考文献
・『日本文学全集47 岡本かの子集』(集英社)
・『多摩区ふるさと写真集』多摩区ふるさと写真集編集委員会(川崎市多摩区)
・『かわさきのあゆみ─写真でみる明治・大正・昭和』
・『目で見る川崎市の100年』(郷土出版社)
・『光明寺と矢倉沢往還』(川崎市博物館資料収集委員会)
・『二子・溝口宿場の民俗』二子・溝口民俗文化財緊急調査団(川崎市教育委員会社会教育部文化課)
。川崎50年 小池汪写真集』


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