鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-笹子峠~甲府まで その12

2017-10-07 07:40:41 | Weblog

 

 等々力(とどろき)の産土神(うぶすながみ)であった諏訪神社から旧道に出てまもなく、通り右手にやや窪んだ一郭があり、台石の上に丸石が幾つも(二十個以上か)積み重なっている道祖神がありました。

 いわゆる「丸石道祖神」は郡内においても見かけましたが、笹子峠を越えて国中(くになか)に入ると俄然多く見掛けるようになった印象があります。

 甲州街道沿いではないものの、JR甲斐大和駅近くの諏訪神社にも丸石道祖神があったし、日影諏訪神社(駒飼宿の近く)にも四段の台石の上に丸石が載った道祖神がありました。

 「共和洞門」南下の旧道沿いにも四つの丸石を積み上げた道祖神がありました。

 甲州街道沿いにおいてそうであるとすれば、それ以外の道沿いにも丸石道祖神が数多く見られる(残存している)であろうことが推測されます。

 今まで見掛けた丸石道祖神とは異なって、この等々力の道端の道祖神は丸石が多数密集している点において異彩を放っています。

 その先にあった広い交差点の名前が「等々力」で、ここで奥多摩・塩山方面から延びてきた国道411号(大菩薩ライン)が旧甲州街道に合流し、直角に右折して石和・山梨方面へと延びていくことになります。

 さて、「天保騒動」へと戻ります。

 郡内一揆勢は天保7年(1836年)8月21日の早朝、白野(しらの)宿近くの天神坂林を出発して笹子峠を越え、同日昼頃に駒飼宿に達し、村名主などの出迎えを受けて酒や昼飯を提供され、ここでいったん休息を摂っています。

 その間に頭取と山梨郡の郡中惣代との話し合いが行われ、米1駄の価格を1両2分ほどに引き下げて米3000俵を郡内へ融通させるように郡中惣代が熊野堂村の奥右衛門のところへ交渉に行くことで話し合いはまとまったらしい。

 しかしその後、初鹿野(はじかの)村の300人ほどが「加勢」として駒飼宿にやって来たあたりから状況が変化し、駒飼宿の米穀商3軒が「打ちこわし」を受けることになったことにより、郡内一揆勢を率いた頭取の思惑(戦略)を越えた事態へと「天保騒動」は急展開することになりました。

 駒飼宿で初鹿野村の村民や駒飼宿の人足たちが加わった一揆勢は、駒飼宿の米穀商3軒を打ちこわした後、日川の河原へと下った後、急坂を上がって鶴瀬の口留番所(鶴瀬関所)に押し寄せます。

 関所番人は小宮山格右衛門で、『大月市史』によれば、頭取武七(治左衛門)が熊野堂村へ米の押し買いにゆく旨を告げて小宮山格右衛門を説得し開門させたようです。

 また『山梨県史 通史編』には、「鶴瀬口留番所では、石和代官手代中山麻之助、増井啓三郎が説諭を行うが、聞き入れず関所が突破」されたとあり、であるとすると関所番人小宮山格右衛門だけの判断や対応ではなかったことになります。

 『大月市史』によれば一揆勢は「二千人以上となって鶴瀬宿へ押し寄せ」たとあり、その押し寄せてくる多数の一揆勢の圧力に、石和代官の役人たちも関所番人も十分に対応する術がなかったということであるでしょう。

 駒飼宿で思惑違いの「打ちこわし」が発生したものの、一揆勢の頭取としてこの鶴瀬口留番所でも武七が先頭に立って役人たちや番人と交渉している姿が想像されます。

 鶴瀬関所が開門されて「二千人以上」の一揆勢が鶴瀬宿に入ったのは『並崎の木枯』によれば「廿一日八ツ時」(午後2時頃)のこと。

 鶴瀬関所を突破し鶴瀬宿で「打ちこわし」を行った一揆勢は甲州街道を西へと進み、勝沼宿の入口を示す東神願(ひがしじんが)鳥居を潜って深沢川に架かる柏尾(かしお)橋を渡り、勝沼宿へと入って行きます。

 『天保騒動記』によれば、勝沼宿の「かきや」(「鍵屋」─鮎川)という酒屋は「かきや」と記した提灯を百張出して一揆勢を出迎え炊き出しを行ったという。

 そして「其節(そのせつ)悪とう(悪党─鮎川)人共儀、人数者(は)凡(およそ)三千人計(ばかり)合成(あいなり)…」とあり、一揆勢には甲州街道筋の村々からも村人たちが加わってどんどんその人数が膨れ上がっているらしいことが推測されます。

 この勝沼宿で夕刻に近付き、「鍵屋」などからの炊き出しを受けた一揆勢はここでいったん休息し夜を明かしているようです。

 頭取の武七と兵助たちもこの勝沼宿で一泊し、この21日の夜、今後の行動をどうするかについて協議をしています。

 『並崎の木枯』によると、駒飼宿において一揆勢が狼藉を働いた(3軒の米穀商を打ちこわしたこと)から、とても米価を下げさせるための郡中惣代と奥右衛門との交渉はまとまるとは考えられず、この上甲州勢が加わって来てはどのような事態が起きるかもわからないので、郡内勢はこの勝沼宿より引き上げるのがよいのではと頭取たちが話し合っているうちに、だんだんと甲州勢が加わって来たため、やむをえずそこから熊野堂村の奥右衛門のところまで押し寄せることになった、ということであるらしい。

 郡内一揆勢の最大の目的は、米価を引き下げることにより郡内地方の貧窮民に米を融通することであり、そのために熊野堂村の奥右衛門のところへ行って米の「押し借り」交渉を成功させることでした。奥右衛門がもし要求をのまなければ「打ちこわし」を決行するぞという圧力をかけて交渉を有利に進める戦略でした。

 一揆勢による「打ちこわし」を怖れた代官所や代官所側に立つ郡中惣代は、一揆勢の国中(くになか)進入を防ぐために奥右衛門との米価引き下げ交渉を買って出ますが、駒飼宿や鶴瀬宿で「打ちこわし」が発生してしまったために交渉の有利な妥結は難しくなることが予想され、さらに今後、「打ちこわし」が各地で発生すればどのような事態になるかも知れない。

 要するに米価を引き下げるために頭取たちが考えた戦略は破綻した(失敗した)ため、郡内一揆勢はやむなく勝沼宿より郡内へ引き返すことに頭取たちの話し合いはまとまったということになりますが、甲州勢(国中の村人たち)がどんどん集まって来たため収拾がつかなくなり、やむなく当初からの目的地である熊野堂の奥右衛門のところまでは行くことにしたというのです。

 郡内一揆勢の頭取たちが統率できる集団ではなくなった、ということでしょう。

 それは「甲州勢」の大量の流入(「加勢」)にありました。

 なぜ「甲州勢」が大量に加わって来たかと言えば、駒飼宿における初鹿野村の人々の「加勢」に見られるように、郡内地方ばかりか、笹子峠を越えて国中(くになか)に入っても、米価の高騰などによって苦しむ貧窮民が多数おり、熊野堂の奥右衛門や各地の米穀商などに対する反発が相当に高まっていたと推測されるのです。

 その状況は、武七や兵助の想像をはるかに超えるものであり、彼らが新たな一揆勢(甲州勢の加わった)の頭取として統率できるものではなかったのです。

 

 続く

 

〇参考文献

・『山梨県史 資料編13 近世6上』

・『山梨県史 通史編4 近世2』

・『大月市史 通史編』

『本』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 甲州街道を歩く-笹子峠~甲... | トップ | 甲州街道を歩く-笹子峠~甲... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL