鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.夏の取材旅行 香取~香取神宮~潮来  その6

2011-09-08 05:39:31 | Weblog
 右手に「農為国本」という土地改良事業を記念する黒御影石の碑や「忠魂碑」を見て、「北利根川右岸6.00km」地点に出たのが15:53。

 「大割閘門」には、この地域一帯の「排水改良事業」(県営湛水防除事業)について記された案内板がありました。

 それらによると、この地域一帯が、農業形態の変化によって従来の舟運から陸送へと変革を迫られるようになったのは昭和30年代に入ってからのことであったようです。土地改良事業」や「圃場整備事業」の一貫として常陸利根川の拡幅工事も行われたということも記されており、それ以前においては常陸利根川はもう少し幅が狭かったということがわかります。

 行く手前方に、常陸利根川に架かる橋と、その左手(対岸)に5階建てほどの白い建物が見えてきました。そのさらに左には小高い丘陵があって、その丘陵は西(牛堀方面)へと常陸利根川沿いに連続しています。

 その常陸利根川に架かる橋の南詰に到着したのが16:13で、橋の名前は「潮来大橋」。その「潮来大橋」の歩行者専用橋である「潮来側道橋」を、対岸へと渡りました。

 常陸利根川の堤防上から目立って見えた白い大きな建物は、「富士屋ホテル」という旅館でした。

 橋を渡りきったところにあった「水郷潮来観光マップ」を見て、潮来の大体の地理を確認。

 川沿いに東へ進めば「遊覧船のりば」があって、そのあたりが「潮来港」となり、「前川水門橋」にぶつかると、そこから左手へと「前川」が流れ、そこにも「遊覧船のりば」がある。「前川」に入ると、右岸に「前川あやめ園」があり、「あやめ橋」→「思案橋」→「水雲橋」→「潮音橋」→JR鹿島線の鉄橋→「天王橋」→ … →「前川橋」と、「前川」に架かる橋が連なっています。

 「長勝寺は?」と捜してみると、「思案橋」や「水雲橋」を渡った北側に「長勝寺」が描かれており、その北側には「稲荷山公園」とも記されています。

 しかしこのマップからは、かつての「潮来花柳」(遊郭街)がどのあたりであったかはわかりません。

 「さっぱ舟」が交通手段として盛んに使われていた時代においては、「常陸利根川」にも、また潮来市内を流れる「前川」にも、橋は架かっていなかったはずであり、この「案内マップ」を見た限りで推測してみると、崋山一行が乗ってきた舟は、常陸利根川から前川へと入ってきて、そのどこかに着岸し、そこから崋山一行は潮来に上陸したものと思われます。

 JR鹿島線が走り、潮来駅がある一帯は、新しく拓かれた市街地であり、前川から長勝寺がある稲荷山の麓にかけてが、古くからの旧市街地であると思われました。

 佐原は、利根川へと流入する小野川沿いに発展した商都であり、利根川から小野川沿いに歩いて行くと歴史的建造物が集中する旧市街地へと入っていきますが、この潮来の町も佐原と似たような町の構造になっています。

 佐原において小野川が決定的に重要な役割を持っていたのと同様に、潮来においては、前川が決定的に重要な役割を持っていた時代があったのです。

 「潮来遊覧船」が並ぶ船乗り場を右手に見て、常陸利根川沿いを進み、「前川水門」の手前で左折して「前川」沿いに進むと、そこにも屋形舟風の「遊覧船」がずらりと並んでいました。

 「水郷十二橋めぐり コース案内図」によると、「Aコース70分」から「Dコース30分」まで4コースがあり、また「ろ舟40分」というものもある。どのコースも5人であれば一人1000円前後。

 であれば、明日、時間があれば乗ってみようかと思いつつ、写真を撮りながら歩いて行くと、岸辺にいたおじさんが声を掛けてきました(16:35)。


 続く


○参考文献
・『渡辺崋山集 第1巻』(日本図書センター)
・『定本渡辺崋山』(郷土出版社)


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