鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

東京の啄木と電車 その2

2010-06-10 07:06:23 | Weblog
 明治42年(1909年)1月1日。3時半頃に年始のために外出。「廻礼の人々が電車に溢れた。」この日啄木は、千駄ヶ谷の与謝野鉄幹・晶子のところに年始に赴き、帰りに平出修を訪ねています。「町々の店は大方戸を閉じて、元日の東京の夜は寂としたもの。」

 電車は年始の人々で込んでいたものの、通りの店は大方戸を閉じている東京の元旦の風景がよくわかります。

 1月11日。午後、本郷四丁目から電車に乗る。「乗合の人々を見まはして、予は心をどるをおぼえた。あゝ、この一人一人が立派な小説を一つ宛持つているのだ。」

 啄木の大きな心境の変化を感じさせる。啄木は余裕ある目で、電車に乗り合わせた人々の顔や姿を見ています。「若い女」だけに視線を向けているのではない啄木がここにいます。

 2月6日。東京朝日新聞社にその編集長佐藤北江(真一)と会うべく滝山町まで赴く。

 2月11日。日比谷に行く。「憲法二十年祭で人出が多かつた、─それはそれは沢山の人」。行き帰りの電車の中も「憲法二十年祭」で乗客があふれていたものと思われる。

 3月1日、月曜日。「昼飯をくつて電車で数寄屋橋まで、初めて滝山町の朝日新聞社に出社した。」

 この記述から、啄木は、本郷三丁目→湯島五丁目→お茶の水→数寄屋橋という路線を利用したことがわかる。「初めて」というのは、「出社」したのが「初めて」ということで、すでに滝山町の東京朝日新聞社には、編集長の佐藤真一(北江)に会うために何度か行ったことがある。啄木はその同郷の先輩である佐藤真一の尽力で、校正係として働くことになったのです。

 3月5日。「社からの帰りの電車の中で一美人を見、柳町でおりる。」

 「柳町」というのは本郷三丁目より向こうの停留場であり、啄木は「本郷三丁目」に向かう路線には乗っていなかったことになる。「一美人」を車内で見かけて、乗り換えをせずにずっと「小石川柳町」まで行ってしまったようだ。24歳になった若い啄木が目を留め、そしてその跡を付けて「小石川柳町」まで電車に乗ってしまった「一美人」とは、どういう女性だったのだろうか。車内に乗り合わせた「若い女」に目を向ける啄木が、ここにもいます。

 3月11日。この日、啄木は、菓子折を持って麻布霞町に東京朝日新聞社編集長の佐藤真一宅を訪ねる。「電車であるいてゐると、方々の邸の梅の花がさいてゐた。佐藤氏の宅で鶯の音をきいた。春!」。
 
 電車の車窓から、家々の庭に梅の花が咲いているのが見え、また麻布霞町の佐藤宅では鶯の鳴き声が聞こえた。それに啄木は「春!」を感じています。

 注目すべきは、3月12日(金曜日)の日記。この日は、妻節子からの手紙が来る。夜には、雨がしとしとと降ってくる。わびしい、静かな夜だ。啄木は、森川町一番地新坂の蓋平館別荘の九番の部屋にいる。珍しい間取りの三畳半の部屋。「称して三階の穴といふ。」この三階の角部屋からは、眼下に家々の瓦屋根が広がり、その向こうに小石川の高台が見える。その左手には砲兵工廠の大煙突が3本、絶え間なく黒い煙を吐き出している。西側を向いているから、晴れた日には富士山が真向かいに見える。

 しかし、今は夜だからそのような景色は闇に沈み、家々の燈火が無数に見えるばかりだ。

 眼下の、小石川の高台まで無数に点る家々の燈火の中に、電車停留所の「青い火、赤い火」が見え、それは啄木の目には、雨がそぼ降っていることもあって、まるで「泣いてるやう」に見えました。


 続く


○参考文献
・『東京市電名所図絵』林順信 車両解説吉川文夫(JTB)
・『石川啄木全集 第六巻』(筑摩書房)
・『石川啄木全集 第五巻』( 同上 )
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1 コメント

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1905年以後の啄木と平出修 (内田弘)
2011-05-18 19:52:40
初めまして。
 『啄木と秋瑾』(社会評論社、2010年11月15日)という拙著を出した者です。啄木と平出修の親密な関係は、大逆事件からではなく、1905年ごろから始まったと考えています。
 ご意見を賜れば幸いです。

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