鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

東京の啄木と電車 その1

2010-06-09 06:58:54 | Weblog
 明治41年(1908年)6月30日の午後2時過ぎ。吉井勇の芝公園の家に行こうと、本郷三丁目より啄木は電車に乗ります。「僕の前に一人の女が乗つた」と啄木は記します。その「女」の記述はそれだけ。おそらく印象深い女であったのでしょう。吉井家でご馳走になった啄木は、中門前町から電車に乗る。「不幸にして若い女は一人も乗合せなかつたが、銀座で五十位の酒臭い福相の男が乗つた。」

 この日誌の記述を読むと、啄木は電車に乗ると、女、とくに若い女に視線を向けていたことがわかります。

 同年7月27日。この日、英和辞書を売った啄木は、「江戸川の終点まで電車」に乗ります。その途中の車窓から、小日向台の樹木が見えました。「六年前を思浮べて、胸が痛んだ」とありますが、「六年前」とは、啄木が大いなる詩人として身を立てようと最初に上京した明治35年(1902年)のこと。彼が上京して向かったところは小日向台。その小日向台に彼はしばらく住んでいました。

 その日、戸塚村や喜久井町など見知らぬところを、炎天下、汗を流して歩き回った啄木は、北山伏町三三に北原白秋の下宿を訪ね、その帰途、「電車で春日町まで来て、広い坂をテクテク」と汗を流しながら上りました。「電車が一台、勢いよく坂を下つて来た。ハット自分は其前に跳込みたくなつた。…新聞記者をした事があるだけに、自分の轢死の記事の新聞に載つた体裁などを目に浮べた。」

 神楽坂を経由しているから、飯田橋から電車で春日町まで来たものと思われる。春日町から本郷三丁目へと春日通りの広い坂道を上がっていた啄木の前方から、一台の電車が勢いよく坂を下ってきたのです。自分の歌を書いた扇を持っていた啄木は、死ぬとこの扇で自分だということが世間に知れるだろうと思って、飛び込みたくなったその衝動をおさえました。

 同年8月25日。「今夕、電車の中は白地の浴衣が少ない。」啄木はそのことに、夏から秋への移ろいを感じています。

 同年9月9日。この日の夕刻、啄木は、「午后七時半の汽車にて安蔵君の金沢にゆく」のを見送るべく新橋ステーションまで電車に乗りますが、その途中、車内で喧嘩を見ます。「危うく時間におくれむとしたり。」車内の喧嘩のために、電車が一時停車していたのでしょう。

 同年10月11日。前日の夕刻に千駄ヶ谷の与謝野家に赴いた啄木は、ほとんど徹夜で歌を作り、この日の朝、千駄ヶ谷から帰ってきますが、「帰つて来るとき、電車が満員で五台許り見送つた。」千駄ヶ谷から甲武鉄道で帰って来たことを考えれば、電車を5台ばかり見送ったところはお茶の水であったかも知れない。電車は東京鉄道の路面電車。満員で電車を次々と見送るような事態(朝の通勤ラッシュ)がすでに生じていることがわかります。

 同年10月22日の夕方。金田一京助と二人で散歩に出て、生まれて初めて「花電車」を見る。本郷三丁目から本郷四丁目の間であったようだ。薬師の縁日では、「一寸法師」の活動写真をやっており、二人はそれを観ています。

 同年11月1日の日曜日の夜。「なんといふこともなく心がさびしくて、人の大勢ゐる所へ行きたくなつた」啄木は、午後8時頃に本郷四丁目から電車に乗って浅草に向かいますが、「電車の中に、目と鼻が、節子に似た女」がいるのを見かけます。電車の中で、若い女に視線を向ける啄木がここにもいる。

 これで、明治41年の日誌については終わり。

 次回は、明治42年の日誌を見ていくことにしたい。明治42年になると、「東京朝日新聞社」への「校正係」としての電車通勤が3月から始まります。


 続く

○参考文献
・『石川啄木全集』
『本』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 『東京市電名所図絵』に見る... | トップ | 東京の啄木と電車 その2 »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL