鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

荒川水運「新川河岸」 その8

2012-05-21 05:52:00 | Weblog
 堤防の坂道を上がって堤防上に出ると、堤の外側には人家の屋根の連なりが見えました。

 かつての田畑が広がる農村風景がやや残っていますが、宅地化が進んでいることが見てとれます。

 堤の内側の方は、河川敷に広がる畑が視界いっぱいに展開し、そのところどころにまるで小さな「島」のように「屋敷森」が点在しています。

 左折して堤防上のサイクリングロードを歩いていくと、まもなく、「海まで71.0km 川をきれいに」と記された標柱が現れました。

 「江川河岸」から江戸まで36里(約144km)という記述があったことを考えると、その海までの距離「71.0km」は、およそ半分以下。

 明治以降、よほどの河川の改修工事が行われたというとになります。

 そこからすぐに右手に現れたのが、「荒川の水害」と記された案内板であり、「決潰の跡」の碑でした。

 その両者の間には、一本の桜の木が植えられています。

 この堤上はすでに歩いているところですが、「荒川の水害」の案内板の説明を再度確認しました。

 その説明文によると、この地点で堤防が決壊したのは、昭和22年(1947年)9月のカスリーン台風襲来の時。この地点で濁流が堤防を越え、流れ出た洪水は埼玉県北部の村々を次々と襲い、おりしも利根川の決壊した濁流と合流して、はるか東京まで達して、尊い多くの人命を奪うとともに付近一帯に甚大な被害を与えたとのこと。

 また昭和57年(1982年)の洪水の時にも、水位が堤防天端近くまで達することがあったという。

 ということは、決壊地点に接する、堤防の内側にあった新川村は、昭和22年9月のカスリーン台風襲来の時、すべてが濁流にのみ込まれ、また村人が立ち去った後の新川村跡地も、昭和57年の時に濁流にのみ込まれたということになります。

 それ以外にも、戦後、この新川村があった河川敷が濁流で覆われたことは幾度もあったものと思われます。

 しかし、現在も、「屋敷森」はあり、その周囲の畑はあり、そして先祖の墓が存在し、畑は子孫の手によって耕され、また先祖のお墓も子孫によって線香があげられ仏花が供されています。

 さらに、かつてお寺にあったものと思われる石仏も、そのままにその場所に安置されています。

 あれらの、かつての村人の生活や信仰を伺わせる「景観」は、幾度も、「荒ぶる川」である「荒川」の濁流にのみこまれたことのある「景観」であるということになります。

 その思いに立って、左手に広がる「景観」全体を眺めた時、その景観は、以前に歩いた時とはまた別のものとして私の目に入ってきました。

 あの庭木のようなピンクの花の咲く樹木が混じる「屋敷森」に、農家の建物と屋根があれば、かつての新川村の姿がそのまま再現されるよう。かつて(明治以後)周囲の畑はほとんどが桑畑であったでしょう。

 堤防のほんの外側には、6~7階建ての高層マンションが建設され、また建築中です。その3階以上の部屋からは、堤防のサイクリングロード越しに、荒川の河川敷やそのはるか向こうの山の連なりが見えるはずです。

 今後、その堤防外の市街化や高層化はさらに進むのかも知れません。

 その堤防を境にして、見える「景観」は、今後ますます対照的になっていくものと思われました。


 続く(次回が最終回)


○参考文献
・『やさしい熊谷の歴史』中島迪武
・『埼玉ふるさと散歩 熊谷市』新井壽郎編(さきたま出版会)


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