
まず最初に目にした石碑には、芭蕉の句が刻まれていました。
「涼しさやほの三日月の羽黒山」
というもの。
その碑文によると、荒川を越えて中山道を蕨(わらび)宿に向かう途中、戸田に入ると、すぐ北側に小高い山(丘)があり、それは「羽黒山」と呼ばれていたとのこと。
この丘はボートコースの掘削のために姿を消してしまったが、その山頂には「羽黒権現宮」が祀られており、それゆえに「羽黒山」とその丘は呼ばれていました。
境内には大きな椋(むく)の木があって、その木の又からは水が湧き出ていたという。
参道の入口には、その「羽黒山」を慕う文人たちが建立した句碑があり、芭蕉が詠んだ句が刻まれていたとのこと。
その句碑は、現在は上戸田の氷川神社に移設されているという。
戸田の「羽黒山」は、その地の出羽三山信仰に関わるものと思われますが、荒川沿いの低湿地帯に延びる縄手道である中山道から、その「羽黒山」という椋の大木のある小さい丘はよく見えたのでしょう。
また「芭蕉句碑」がその参道入口にあったということは、この戸田近辺にも、俳諧を嗜む地方文人たちがいたということを示しています。
次に目に留まったのは、「戸田の渡し」という「戸田南小学校子供作品」。粘土細工のような金属作品ですが、渡し船の船頭が、力を込めて棹(さお)を操っています。
崋山も、道中知り合った生田万とともに、このように「戸田の渡し」を渡し船で渡っていったのです。
同じ「子供作品」で、「道中かご」というのもありました。
また小林一茶の『寛政三年紀行』の一節が刻まれた石碑もありました。
それは次のようなものでした。
「戸田の渡りを越えてわらび駅に入れば薄々と日は暮ぬ 大名のとまりとておごそかに幕打廻しあらたに砂蒔ちらし 門人は従者の名札を張りて右に左に棒をつきて非情の輩をいましむると見えたり」
蕨宿(本陣)に大名が宿泊しているため、幕が張られ、砂も新しいものが街道の路上にまかれ、またその門前にはいかめしく警護の門番が立っている、といった情景を描いたもの。
この石碑などが設置してある緑道は、「環境空間戸田公園駅東口緑地」といい、その「西口緑地」も鉄道高架橋に平行してありました。「こころの中山道」を基本コンセプトとしたものだという。
かつてのこのあたりの中山道の景観は、もう「こころ」の中で想像・追憶するしかないということであるのかも知れません。
その埼京線の「戸田公園駅」から電車に乗って、帰途に就きました。
終わり
○参考文献
・『板橋区史通史編 上巻』(板橋区)
・『高野長英』佐藤昌介(岩波新書/岩波書店)
「涼しさやほの三日月の羽黒山」
というもの。
その碑文によると、荒川を越えて中山道を蕨(わらび)宿に向かう途中、戸田に入ると、すぐ北側に小高い山(丘)があり、それは「羽黒山」と呼ばれていたとのこと。
この丘はボートコースの掘削のために姿を消してしまったが、その山頂には「羽黒権現宮」が祀られており、それゆえに「羽黒山」とその丘は呼ばれていました。
境内には大きな椋(むく)の木があって、その木の又からは水が湧き出ていたという。
参道の入口には、その「羽黒山」を慕う文人たちが建立した句碑があり、芭蕉が詠んだ句が刻まれていたとのこと。
その句碑は、現在は上戸田の氷川神社に移設されているという。
戸田の「羽黒山」は、その地の出羽三山信仰に関わるものと思われますが、荒川沿いの低湿地帯に延びる縄手道である中山道から、その「羽黒山」という椋の大木のある小さい丘はよく見えたのでしょう。
また「芭蕉句碑」がその参道入口にあったということは、この戸田近辺にも、俳諧を嗜む地方文人たちがいたということを示しています。
次に目に留まったのは、「戸田の渡し」という「戸田南小学校子供作品」。粘土細工のような金属作品ですが、渡し船の船頭が、力を込めて棹(さお)を操っています。
崋山も、道中知り合った生田万とともに、このように「戸田の渡し」を渡し船で渡っていったのです。
同じ「子供作品」で、「道中かご」というのもありました。
また小林一茶の『寛政三年紀行』の一節が刻まれた石碑もありました。
それは次のようなものでした。
「戸田の渡りを越えてわらび駅に入れば薄々と日は暮ぬ 大名のとまりとておごそかに幕打廻しあらたに砂蒔ちらし 門人は従者の名札を張りて右に左に棒をつきて非情の輩をいましむると見えたり」
蕨宿(本陣)に大名が宿泊しているため、幕が張られ、砂も新しいものが街道の路上にまかれ、またその門前にはいかめしく警護の門番が立っている、といった情景を描いたもの。
この石碑などが設置してある緑道は、「環境空間戸田公園駅東口緑地」といい、その「西口緑地」も鉄道高架橋に平行してありました。「こころの中山道」を基本コンセプトとしたものだという。
かつてのこのあたりの中山道の景観は、もう「こころ」の中で想像・追憶するしかないということであるのかも知れません。
その埼京線の「戸田公園駅」から電車に乗って、帰途に就きました。
終わり
○参考文献
・『板橋区史通史編 上巻』(板橋区)
・『高野長英』佐藤昌介(岩波新書/岩波書店)









