鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-笹子峠~甲府まで その3

2017-09-27 06:56:02 | Weblog

 

 左手に「史跡 駒飼脇本陣跡」の空き地を見て家並みに入ってすぐに、同じく左手に「史跡 駒飼本陣跡」の標柱があり、その側面には、「駒飼宿 江戸より第三十宿、江戸へ三十里九丁、甲府へ五里十九丁 本陣一、脇本陣一、旅籠六、問屋場一、宿内家数六十四戸、宿高百三十五石五斗六升三合」と記されていました。

 その空き地には「明治天皇御小休所址」の石柱も。

 また「甲州街道 駒飼宿」の案内マップも建てられていました。

 それには次のような解説が付されていました。

 「笹子峠の西麓にあった駒飼宿は、江戸時代には幕府の公用を継立する役目を果たし、旅行者の休泊のため、本陣・脇本陣・旅籠などが設けられた甲州街道の要所として知られていました。

 笹子への道の往還を、人が休み、その名の通り馬が餌と水を与えられたこの宿場は、今でも家が建ち並び、往時の雰囲気を残しています。」

 そのマップにはいつの時代のものかはわかりませんが、街道両側の家々の屋号が記されており、往時の宿場の配置や構成を伺うことが出来ました。

 今まで街道を歩いてきても、このようなマップは珍しいもの。

 そのマップによると、旧甲州街道は「甘酒茶屋」より「笹子沢川」の沢沿いを下り、「雑事場」や「桃の木茶屋」を経て笹子沢川を「清水橋」で渡り、「心中横手」を経てふたたび笹子沢川を「天狗橋」で渡ります。

 その右手にあったのが「甲州屋」と「日川屋」。

 それから間もなく家並みへと入り、左手にあったのが「富屋」でこれが脇本陣。

 その左手に二軒置いてあったのが「本陣」。

 「叶屋」のところで左へと急角度に曲がって、「吉野屋」のところで今度は右へと急角度に折れて、左手に「穀屋」、右手に「縄屋」を見て、ふたたび笹子沢川を渡っていきます。

 笹子沢川に架かる「天狗橋」からふたたび笹子沢川を渡るまでの間に、駒飼宿が密集した形であることになります。

 そのうち、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠6軒、問屋場1軒。

 他の家々は、宿場内でさまざまな商売をしていたものと考えられます。

 「穀屋」「油屋」「縄屋」「甘酒屋」「竹屋」「豆腐屋」などの屋号がそれを示しています。

 実は近くの「大和スポーツ公園」の角にも「甲州街道 駒飼宿」の案内マップがあって、解説文やマップはほぼ同じですが、こちらの方には駒飼宿の家々の屋根がまだ茅葺きだった頃の写真が掲載されています。

 多くは切妻造りで、屋根の棟の中央には「煙出し」があり、また「芝棟」状のものも見えます。さらに茅葺屋根は突き上げ2階になっており、おそらく突き上げ2階に改築されたのは明治以後のことであると思われます。

 その2階部分は居住空間ではなく養蚕用に使用されていたはず。

 つまりこの写真における旧駒飼宿の集落は、明治以後盛んになった養蚕を生業(なりわい)の中心とする「養蚕農家」の集落の面影を色濃く残しているものと言えます。

 この写真が撮影された時期はわかりませんが、電柱や電線はまったく見られないことから、電化される以前に撮影されたもの。

 大正時代か昭和初期(戦前)頃でしょうか。

 撮影地点もよくわかりませんが、旧駒飼宿の上の方(天狗橋の上か)から下の方を写したものであるようです。

 とすると左下の家は旧脇本陣(富屋)あたりかと推測できますが、はっきりしたことはわからない。

 現在、かつての突き出し屋根のある茅葺屋根は、赤い色のトタン屋根で覆われた形で今でも何軒か見ることができます。

 しばらく進むと左手に急角度に曲がってゆるやかに下る道があり、その角に「←旧甲州街道」と記された案内板がコンクリート基礎に貼り付けられていました。

 またその角には「やまと市民バス」の「日影」バス停があり、「塩山駅南口行き」が12本記されていました。山間部を走るバスとしてはかなり多い本数でした。

 

 続く

 

〇参考文献

・『日本民家園収蔵品目録6 旧広瀬家住宅 附 山梨県甲州市塩山広瀬家民俗調査報告』(川崎市立日本民家園)

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