鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-小仏から藤野まで その10

2017-05-11 06:47:41 | Weblog

 

 JR相模湖駅を左下に見て、中央自動車道の高架を潜って中央本線の上を越えたのが13:19。

 山裾を通って「高野山真言宗 金峰山 慈眼寺」の前に出たのが13:21。

 古い石段の向こうに新しいコンクリートの階段が上へと延びており、その左にもやはり同じような新しい階段があります。

 参道横には「廿三夜」と刻まれた石造物があり、この手前の石段や石造物は昔からここにあるものと思われました。

 左側の石段の前に回ってみるとやはり古い石段と両側に石灯籠があって、その向こうにまっすぐに新しいコンクリートの階段が奥へと延びています。

 由緒書の看板によると、この神社は「與瀬神社」で、その横に「よせのごんげんさま」と記してあるから、地元の人たちからは古くから「与瀬の権現さま」と呼ばれていたことがわかります。

 祭神は「日本武尊」(やまとたけるのみこと)。由緒として、「甲州街道の名社として往古より知られ殊に虫封祈祷は名高い」とありました。「虫封」とは虫封(ふう)じのこと。

 「馬頭尊」と刻まれた石造物は、側面を見ると「元治紀元甲子年三月十八日」と刻まれています。「元治紀元甲子年」とは1864年にあたります。

 コンクリートの階段を上がって行くと淡い朱色の広場に出ましたが、実はこれは中央自動車道を跨ぐ幅の広い橋であって、その橋の下には車が音をたてて行き交っています。

 その広場の向こうの山裾にふたたびコンクリートの階段が二つ並んでいて、左側の階段の上には鳥居、右の階段の上には山門があり、その山門の奥に本堂の屋根が見えます。

 鳥居と本堂の間には鐘楼の屋根も見える。

 つまり山の斜面には与瀬神社(与瀬の権現さま)と真言宗の慈眼寺が並立していることになり、かつてはそれぞれに通じる石段が山の斜面に長く延びていたのが、中央自動車道がその石段の参道を断ち切るように造られることになったため、中央自動車道を跨ぐ橋を造るとともに、新しいコンクリート製の階段を造ったということになります。

 つまりこの淡い朱色の広場は橋であって、両方の寺社の参道でもあるということです。

 参詣する地元の人々にとっては、参道の景観が大きく変貌したことになります。

 広場の奥、左右の階段の真ん中に「石碑」らしきものがあり、近寄ってみると「記念碑」とあって、それには次のようなことが記されていました。

 昭和43年12月20日に開通した中央高速道路建設のため、この地点にあった与瀬神社赤鳥居、慈眼寺の鐘楼を現在地に移し、別個にあった参道を併せてこの高架横断橋になった。それを永く末代に伝えるためこの記念碑を建立した。

 赤鳥居や鐘楼はもともとはそれぞれの参道途中にあり、中央道建設のため現在地に移転したのです。

 おそらく甲州街道に沿ってそれぞれの参道入口があり、途中に赤鳥居や鐘楼があって、さらにその上へとのぼっていくと神社の社殿があり、またお寺の山門と本堂があって、その途中の参道両側も含めて寺社のまわりには鬱蒼とした森が広がっていた(山の斜面に)ということであるでしょう。

 ここでも山の斜面に造られた高速道路によって地域に生じた影響や景観の変化を見ることができます。

 赤鳥居の下から振り返ってみると、淡い朱色の四角い広場の向こうに相模湖の湖面とその向こうの山並みが見えました。

 その湖面の下に、かつては相模川が蛇行して流れ、そこには勝瀬という集落があったのです。それは河岸段丘の上にあった与瀬宿の南側下にありました。

 その景観をさらに上から眺めるため、赤鳥居からさらに上へと続く与瀬神社への古い石畳の坂道と石段をのぼって行きました。

 途中、下ってくる夫婦らしき登山客がいて声を掛けると「陣馬から下りてきた」とのこと。

 陣馬山からこの与瀬神社に至るルートがあるということで、ということはここから陣馬へ至ることが出来るということです。

 

 続く

 

 

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