鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.10月「不動坂~本牧~根岸」取材旅行 その2

2008-10-16 06:20:30 | Weblog
 「根岸競馬場跡」のガイドパネルなどによると、洋式競馬が初めて開催されたのは文久2年(1862年)5月のことで、場所は、旧横浜新田。元治元年(1864年)の「横浜居留地覚書」第1条により、一時期吉田新田に競馬場が設けられたものの、外国人遊歩道の開通とともに、慶応2年(1866年)、日本最初の近代競馬場が外国人遊歩道に沿う根岸の丘の上に設置されることになりました。

 周囲は827間(1,5km)。トラックの幅は10間~15間(18m~28m)。敷地面積は14920坪(49236平方km)。グランドスタンドは35間四方(64m四方)。設計はW.A.ドーソン。

 翌慶応3年(1867年)に、第一回の競馬会が開催されたという。

 明治8年(1875年)、西郷従道(つぐみち)が日本人最初の会員となり、その秋のレースで愛馬ミカンに騎乗し優勝した、とのエピソードも。

 昭和5年(1930年)、J.K.モーガンの設計によるスタンドが完成。

 しかし昭和18年(1943年)、ここは日本海軍の所有するところになり、戦後は昭和22年(1947年)よりアメリカ軍が、モータープールやゴルフ場として使用するところとなりました。昭和44年(1969年)、スタンドを除く14,2ha、主としてゴルフ場であった場所が返還され(接収解除)、昭和47年(1972年)から横浜市が公園整備に着手。昭和52年(1977年)10月1日に「根岸森林公園」として開園したのだという。

 かなり広い公園で、また別の機会に「馬の博物館」も含めてゆっくりと訪れてみたいと思いました。

 さて、この根岸競馬場ですが、その明治初年の頃のようすを写した写真が、『図説 横浜外国人居留地』のP25に載っています。『ファー・イースト』の1870年11月16日号に掲載された写真ということですから、おそらく明治3年(1870年)頃に撮影されたもの。説明には、「居留民と駐屯軍将校によって構成される横浜レース・クラブが使用権を獲得し、翌年(1867年─鮎川註)初頭に最初の競馬会を開催した」とあります。

 手前の柵の外側から競馬を見物しているのは、手拭いで頬被りした日本人の男たち。右端には、帽子を被りひげを生やした西洋人の男性が一人立っています。幅の広いトラックの向こう側の柵の外側には、たくさんの外国人が密集し、またグランド・スタンドの上にも多くの観客が立って、競馬を眺めています。馬たちは写真右手から左手方向へ勢いよく駆け過ぎていったようです。日本人や西洋人の視線は、それを見送っています(もしかしたら逆で、左から右方向へ走ってくるのかも知れない)。

 同書P50には、明治40年(1907年)春の根岸競馬場の競馬会の写真が掲載されています。トラックの柵手前には、外国人に交じって和服の日本人男性の姿も見られます。

 この競馬場のスタンド(ドーソンの設計によるもので、『図説 横浜外国人居留地』のP25(6)の写真に写っている白い建物がそれ)の上(高さは10m以上はありそうだ)から見える眺望はよほどすばらしかったらしく、『F.ベアト幕末日本写真集』のP24には、「スタンドから見える景色の美しさと広大さは、他に類がないと言ってもよく、東アジアにある最高のもの、または最もすばらしいものの一つと考えられる」と記されています。

 同書P24の写真、不動坂の丸太のガードレールの手すりにもたれかかって、根岸湾の方向を眺めている日本人の男に見えている風景は、根岸競馬場のスタンドから見える風景と、ほぼ同じものであったと言えるでしょう。

 右手に「根岸森林公園レストハウス」や「在日米軍消防署」を見て、さらに進んでいくと、右手に不思議な空間がある。手前の歩道との境に塀の跡らしきものがあり、また黄色い水道栓(消火栓?)のようなものがあって、その向こうは芝生のような広場になっています。もともとは在日米軍の根岸ハウジング(住宅地)ではなかったか、と思われました。

 左手に大きな一枚岩の「馬頭観世音」があるのが目を引きました。畳2枚近くはありそうなもので、「正三位勲三等男爵 冨岡敬明書」とあります。

 競馬場があった、ということと深い関係があるのでしょう。

 「根岸台」バス停に至ったのが、8:21。

 その先、道は左に旋回しています。右手に横浜市交通局根岸台詰所。

 そのカーブが、不動坂だろうと思って、曲がってみると、見えた眺望はどうも予測とは異なっていました。そこで道を戻って、歩いて来た年輩の女性に声を掛けてみたところ、

 「この先は日本人は通れませんよ」

 という。

 「ということは、私は日本人だから通れないわけですね」

 おばあさんは、笑みを浮かべました。

 「不動坂というのは、どちらですか」

 「不動坂は、この道を戻って、消防署があったでしょう」

 「ええ」

 「そこの前を折れて、下っていくと不動坂です」

 この道の先は、「米軍根岸住宅」のある寺久保というところであるようです。

 ということで、道を戻り、「在日米軍消防署」の前、「根岸旭台」信号のところで右折。

 坂を下り始めると、左手に、「DOLPHIN」(ドルフィン)というレストランがありました。これは、松任谷由美の歌の中にあった、あの「ドルフィン」でしょうか。

 それを左手に見て、しばらく坂を下ると、「不動坂上」バス停がありました。

 バス停左手には、古い樹木が一本聳えています。

 そこを、ぐるっと左に曲がりました。



 続く


○参考文献
・『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)
・『図説 横浜外国人居留地』横浜開港資料館編(有隣堂)


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