鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-小仏から藤野まで その最終回

2017-05-15 06:10:31 | Weblog

 

 街道の左側はなだらかな斜面の畑が広がっていて、遠くに集落とその背後の山の重なりが見えます。

 前方で街道はゆるやかに左へとカーブし、竹林のところで右に曲がって消えています。

 間にあるのは畑とその下に人家があって、そこにも生活道である細道が走っています。

 つまり街道は畑や人家などを左手に見下ろしながら山の中腹を走っていて、遠くに山の重なりを見晴るかすという感じであって、広々とした山間部の風景を眺めながら山際に沿って延びていきます。

 人家はかなり下に見える場合もあります。

 甲州街道本道の周囲には田んぼは全くなく、山の斜面に畑が拓かれていて、かつては養蚕業や林業を主体とした生業(なりわい)であったことを示しています。

 そういった沿道風景を眺めながらやがて道を下り、中央道に架かる陸橋を渡ったのが14:32。

 さらに中央本線を渡って「広域避難場所 →1km 藤野中学校」の標示を見たのが14:39。

 まもなく右手に吉野神社が現れました。

 ここで坂を下りていけば国道20号に合流するはずですが、国道の車通りの激しい道は歩きたくなかったので、途中出会った女性に、国道20号以外に藤野駅へ行くことができる道を尋ねると、遠回りになるけれども藤野駅の北にあるトンネルを通って駅へと出る道を教えてくれたので、その道を行くことにしました。

 沢井沢踏切で中央本線を渡ったのが14:52。

 「明王峠 陣馬山」と「藤野駅」への分岐点を示す案内標示があり、「藤野駅」方向へと進みます。

 「日野」のバス停を通過したのが15:12。

 何度か車で通ったことのある幅の狭い沢井隧道を抜けて中央本線の踏切を渡り、右折してJR藤野駅に到着したのは15:28でした。

 さて広重ですが、広重の場合、すでに触れたように与瀬宿から私がたどった甲州街道の本道は通らず、脇道である下を流れる相模川を渡るコース、つまり「二瀬越」の近道を選びました。

 与瀬宿から河岸段丘を下って「勝瀬の渡し」で相模川を越え、勝瀬に入り、まもなくふたたび「丹田前の渡し」で相模川を渡って吉野宿へと河岸段丘を上がっていくコース。

 これが旅人にとっては一般的なコースでした。

 実際甲州街道本道を歩いてみると、広々とした山間部の風景を左手に見ることはできますが、道は起伏が多く曲がりくねっており、確かに脇道を通った方が近道であると思われました。

 勝瀬のあたりの相模川は大きく湾曲して流れており(河岸段丘の崖に沿ってU字型にゆるやかにカーブしている)、勝瀬は半島状に北方向に突き出したような土地。

 「相模川の流れ緩々たり」と広重は記しているから、水量は多く、川幅も広く、ゆったりと相模川は勝瀬の三方(西・北・東)を流れていました。

 北村透谷が目撃していたようにその川幅の広い、ゆったりとした流れである相模川を白い帆を張った高瀬船が航行しており、この勝瀬の人々はその高瀬船の白い帆がゆっくりと移動していく光景を畑や田んぼ越しに見ていたのです。

 しかし広重がその相模川を航行する高瀬船を目にしていたかどうかは、彼の日記では確認することはできません。

 

  終わり

 

〇参考文献

・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭調査研究報告書』(山梨県立博物館)

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