鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-笹子峠~甲府まで その5

2017-09-29 06:55:22 | Weblog

 

 天保7年(1836年)8月17日(旧暦)の夜、谷村(やむら)近在の百姓たちが谷村の米穀商を打ちこわした時、石和代官所の新代官西村貞太郎はまだ着任前で江戸におり、石和代官所にはいませんでした。

 また石和代官所の前代官井上重左衛門は、7月25日に甲府代官所の新代官として甲府に転勤していったばかりでした。

 つまりこの時期、石和代官所に代官は不在でした。

 この谷村での打ちこわしに対応したのは、不在(未着任)の新代官西村貞太郎の手代(てだい)である松岡啓次であり、8月19日に打ちこわしの頭取たちが召し捕えられると、翌20日に谷村陣屋(石和代官所の出張陣屋)は郡内の各村々の名主に対し、百姓たちの結集を制止する急廻状を回しています。

 その8月20日の早朝、代官手代松岡啓次は谷村から笹子峠を越えて石和代官所に急行し、その日のうちに黒野田宿まで戻っています。

 黒野田宿に戻って本陣(天野屋八左衛門)に宿泊した松岡啓次は、黒野田の名主(兼問屋役)の泰順、下初狩の名主郡助、上花咲の名主喜右衛門(本陣兼問屋役)らを呼び寄せて、彼らから百姓不穏の動き(「一揆」への動き)を耳にしています。

 郡内下郷(しもごう)道中筋の百姓たちの不穏な動きを察知した松岡啓次は、翌21日の早朝、ふたたび笹子峠を越えて国中(くになか)へと向かいますが、峠を越えた駒飼宿において松岡啓次を待ち受けていたのは「石和郡中惣代」の二之宮村文平と八田村富右衛門でした。

 21日の朝に、白野宿近くの天神坂林に結集した郡内一揆勢はそこを出発しているから、それに先行して松岡啓次は黒野田宿本陣を出立し、笹子峠を越えて国中へ向かったことになります。

 『並崎の木枯』には、そのあたりのことが具体的に記されています。

 「石和郡中惣代二ノ宮村文平、八田村富右衛門両人義、松岡様御迎として幸ひ此所に罷居候(まかりおりそうろう)ニ付、子細(しさい)掛合(かけあい)候」

 「郡中惣代」とは天領における村役人の代表者で、代官所の補完的役割(代官所からの命令による仕事や年貢廻米に関する仕事など)を担った者を指します。

 「石和」とはこの場合、石和代官所支配の「八代(やつしろ)郡」を意味するものと思われる。

 「二ノ宮村」は八代郡二之宮村(現在の笛吹市御坂町二之宮)。

 「八田村」は八代郡八田(はった)村(現在の笛吹市石和町八田)。

 この「二之宮村文平」と「八田村富右衛門」は、石和代官所支配の八代郡の「郡中惣代」であり、八代郡の村々全体の村役人の代表者であるとともに、石和代官所の「御用」(特に年貢廻米に関わる仕事)を務めていた村役人であったのです。

 『並崎の木枯』によれば、石和代官所の「御用」を務める二人の「郡中惣代」が、笹子峠を越えて戻って来た石和代官所手代松岡啓次を駒飼宿で待ち受け、この二人が、駒飼宿にやってきた一揆勢の頭取と交渉の場をもったことになります。

 駒飼宿から国中(くになか)の熊野堂村へと一揆勢が向かう前に、それを是が非でも食い止めなければならないという差し迫った状況に「郡中惣代」も陥っていたということ。

 頭取(下和田村の武七)は、その交渉の場でどのようなことを発言したのか。

 その箇所を『並崎の木枯』から現代文に直すと、以下のようになります。

 「8月12、13日(旧暦)までは米1駄につき1両3分2朱ほどで駒飼宿から買い取っていたが、その後急にその値段が上がり、米1駄につき2両1分でなくては売り渡すことはできないと言われ、米を買いに行った馬子(まご)たちは値上がりした米を買えるだけのお金を用意していなかったので、よんどころなく空馬(からうま=荷物を運ばない馬)で帰って来た。

 そのため、その後交渉を持ったものの、米穀が払底しているからといって米1駄の値段を2両1分より下げようとはしなかった。

 とどのつまり国中(くになか)の商人たち(熊野堂の奥右衛門ら)が米を買い占めて売り出そうとしないからこうなったのだと考えて、彼らに米を融通させるために一揆勢を率いてここまでやって来たのである。」

 おそらく郡内地方から笹子峠を越えて、米を買うために馬子(駄賃人足)たちが多数の馬を連れて駒飼宿へと向かい、米俵を担う多数の馬が峠を越えて郡内に戻るという光景は、毎日のように見られたものであったでしょう。

 米1駄につき1両3分2朱というのも厳しい値段であるものの、なんとか我慢していたのであるが、8月12、13日を過ぎたあたりから急に値段が上がって2両1分でなくては売ってもらえなくなった。

 いくらなんでも2両1分では無理だということで交渉を持ったものの、それ以下では売れないということで、馬子たちが笹子峠を越えて郡内に米を運ぶことが出来なくなり、ただでさえ厳しい郡内の人々の生活はさらに厳しいものになってしまった。

 2両1分より以下では売れないと駒飼宿の米穀商が言い募るのも、とどのつまりは国中の米穀商、とりわけ熊野堂の奥右衛門が米の買い占めを行って郡内へ売り出そうとしないからであると判断し、我々はやむなくこのような一揆という非合法な行動に出たのだというのが武七の言い分でした。

 国中(くになか)の熊野堂へと向かおうとする一揆勢のそれ以上の進入を食い止めるために、代官所の「御用」を務める郡中惣代たちは、武七のそのような言い分に対してどのような回答を与えたのでしょうか。

 

 続く

 

〇参考文献

・『山梨県史 資料編13 近世6上』(山梨県)

・『大月市史 通史編』(大月市)

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