鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

北前船を追う-松前と江差 その3

2017-06-02 06:37:03 | Weblog

 

 旅館前の通りを右手に行くとすぐに「松前中心部案内図」があり、松前の地理の概要を頭に入れました。

 松前城の天守閣はそばを流れる川を渡って右折して「天神坂」を上がれば「天神坂門」を潜り、次の「搦手二ノ門」を潜れば至ります。

 日本海に流れ込む川の名前は「大松前川」。

 旅館および松前城の前を走る通りは「松前港線(城下通り)で、海岸に沿って走るバイパスがバス通りになっています。

 松前城天守閣は「松前城資料館」になっており、「本丸表御殿玄関」の下の方に「沖の口坂」があり、海際に「沖口広場」があります。

 松前城の向こう側(西側)に流れる川が「小松前川」で、さらにその向こうを流れる川が「唐津内沢川」。

 松前城天守閣の背後には「松前神社」があり、さらにその背後に「法源寺」「法幢寺」といったお寺があり、さらにお寺は西側に「龍雲院」「光善寺」「専念寺」「光明寺」、東側に「阿吽寺」「法華寺」「正行寺」と、まるで城の左右と背後を取り囲むようにして数多くあるのに興味がひかれました。

 松前城は前面(南側)に日本海が広がり、左右(東西)に川があってその日本海に流れ込み、さらにその左右と背後は神社やお寺で囲まれていることがわかります。

 「阿吽寺」の近くには「桜見本園」と「桜資料館」があり、大松前川の奥には「徳山大神宮」と「町民総合センター 松前郷土資料館」があります。

 その奥は山で、松前城の背後は山が迫っていることがわかります。

 小松前川の奥には「松前藩屋敷」と「松前観光協会」がある。

 「松前藩主松前家墓地」は「法幢寺」と「法源寺」の間の道の突き当りにあります。

 案内図を見ると、松前城下の中心は「松前港線(城下通り)」に沿った海岸近く(松前城のすぐ南側下)であり、松前城およびその左右背後には寺社地が広がっていたことがわかります。それらはほとんどが高台にあり、城下町はその高台の下、海岸沿いや川沿いにあったことが推測されました。

 高台にある城郭および各お寺の敷地をあわせた広さは相当に広く、案内図ではその至るところに桜が桃色で描かれています。

 松前というと、木古内駅のポスターに見られるように松前城天守閣と桜で有名ですが、確かに松前城の周辺は桜がたくさん植えられていて、まるで桜の只中にあるようであることが案内図からもわかりました。

 「大松前川」の看板には「川の名の由来」として、「諸説があるが、アイヌ語でマツ・オマイ、マト・マイの婦人の居るところ、つまり、先住民(蝦夷)の住む地に、和人の女性も住むを表しているものと思われる」とあり、「松前」は「マツ・オマイ」「マト・マイ」といったアイヌ語に由来しているようであることが記されています。

 その「大松前川」に架かる橋を渡って右折し、石垣のある「天神坂」を上がると「天神坂門」があり、「番所」の跡地と推定されるところがあり、そこに「松前自沖口至奉行所図」(松前沖ノ口より奉行所に至る図)と松前城を写した古写真(1867年撮影)などが紹介されていました。

 注目されたのはこの1867年撮影の古写真で、それは方角的には城の東側の高台から城下町の密集する民家の瓦屋根越しに高台にある松前城を望んだもので、天守閣のほかに幾重にも城塀や館が建ち並んでいる壮観な松前城の全貌を写し取ったものでした。

 1867年というと慶応3年で江戸時代も間もなく終ろうとしている時期。

 慶応3年という時点でいったい誰がこれを写したのかも興味がありますが、その時点において蝦夷地の松前城がこのような威容を誇っていたことに正直驚かされました。

 またそのそばのジオラマのような松前城の模型を見ると、城郭の海に面した高台に一番台場から七番台場までがずらりと並んでいることからも、幕末の松前城は相当に軍事的な城郭であったことがわかりました。

 「搦手二の門」を潜ると正面に松前城本丸が見え、「史蹟松前城」の石碑と「松前城」の案内板があり、左手の広場の向こうには日本海の海面が薄雲の広がる空との境がわからないほどに淡く広がっていました。

 

 続く

 

 

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