鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.10月取材旅行『游相日記』番外編-大山街道(厚木~大山) その5

2014-11-22 06:09:00 | Weblog

 高部屋神社から大山街道を歩き、しばらくして国道246号とぶつかります。そこにある交差点が下糟屋交差点。

 その交差点を渡り(8:42)、そのまま幅の狭い道路へと入って行きますが、それが大山街道。

 やがて道路の右手に東海大学附属病院の大きな建物群が見えてきます。

 それからまもなく「咳止地蔵尊」と記された看板が目に入りました(8:52)。

 両手を合わせた石造地蔵座像が安置された祠の傍らには、「咳止地蔵尊由来」と記された案内板があり、それによると、この咳止地蔵は渋田川に架せられた「せきど橋」のたもとにあり、古来、痰咳(たんせき)平癒の守護仏として崇められてきてとのこと。

 地蔵堂前の古道は相模川の戸田の渡しから大山に通じる「戸田道」であり、糟屋宿にも程近いところから大山詣りの道者たちの信仰も得ていたらしい。

 背後にある冨士山(ふじやま)は八王子道にも通じるので、昔は繭の市も立ったという。

 かつてはこの地蔵堂のまわりは桑畑が広がっていたのかも知れない。「繭の市」は周辺の養蚕農家のためのものであったでしょう。

 地蔵堂前の道は「冨士山」と呼ばれる小高い山へと延びています。この小高い山は富士山信仰の関わりがある山であると思われますが、地図を見ると、現在は「市民の森ふじやま公園」になっているようです。

 ここから「市米橋」(いちこめばし)交差点を渡って「田中山耕雲禅寺」の前に至ったのが9:03。

 この寺の前の道は「矢倉沢往還」であって、大山へ至る道ではないことを、境内で開いた『ホントに歩く大山街道』で知って、ふたたび「市米橋」交差点に戻って左折。

 そこからしばらく道を間違えて進んだものの、「峰岸団地入口」交差点に出たところで、「大山街道」「三軒茶屋」と記された掲示がされている標柱を見つけ、そこから果樹園の中の道(これがかつての大山街道であるらしい)を耕雲寺近くまで戻って、そこからまた果樹園の中の道を「峰岸団地入口」交差点まで戻りました。

 標柱の「三軒茶屋」の説明は、以下のようなものでした。

 「ここは厚木方面からの大山道(青山道)と柏尾方面から来る大山道(戸田道)、田村通り大山道から分かれる日向道、平塚・伊勢原方面から来る津久井道などの交差するところで、多くの人が行き交う賑やかな場所でした。その為、ここに三軒の御茶屋があって、旅人はここでお茶を飲んで一服したと云われています。三軒茶屋の地名は今でも残っています。」

 この現在の「峰岸団地入口」交差点あたりは、「三軒茶屋」という地名であり、かつては各方面からの道が交差して多くの旅人で賑わったところであったのです。

 果樹園の中の古道からは大山の全貌を見晴るかすことができましたが、その三軒の茶屋からも、茶を飲みながら大山の全貌を眺めることができたものと思われます。

 

 続く

 

〇参考文献

・『蝦夷の国泰寺と相模の禅僧』安達久雄(伊勢原市教育委員会)

・『ホントに歩く大山街道』中平龍二郎(風人社)

 



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