鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2018年 新年のあいさつ

2018-01-01 06:32:35 | Weblog

 昨年中はありがとうございました。

 今年もよろしくお願いします。

 取材旅行については、昨年は甲州街道を甲府まで歩き、北前船に関連して航路の最北にあたる北海道の松前や江差を訪ねました。

 また北前船の寄港地を訪ねて山形県から新潟県にかけて取材旅行を行いました。

 甲州街道を東京日本橋から甲府まで歩いたのは、浮世絵師である歌川広重の甲府道祖神祭幕絵制作への関心からですが、一方で甲斐一国を巻き込んだ「天保騒動」への関心がありました。

 なぜ「天保騒動」に関心が向かったかと言えば、これまで探訪を続けてきた渡辺崋山への関心からで、天保年間に起きた「天保の大飢饉」や甲斐で起きた「天保騒動」、三河で起きた「三河加茂一揆」、そして「大塩平八郎の乱」などを頭に入れないと、いわゆる「蛮社の獄」や彼の経世済民思想、また彼の世界認識が理解できないのではないかと思ったからです。

 特に天保4年(1833年)の「天保の大飢饉」の始まりから、崋山を取り巻く状況は一変します。

 その「天保の大飢饉」は「七年飢渇」と言われるように天保10年(1839年)頃まで続き、全国に深刻な状況をもたらしますが、その間に起こった大きな事件が「天保騒動」であり「三河加茂一揆」であり「大塩平八郎の乱」でした。

 「天保騒動」は江戸地廻り経済圏とも言える天領(幕府直轄地)甲斐国で起き、「三河加茂一揆」は田原藩の領国の近くで起きた一揆(打ちこわし)であり、「大塩平八郎の乱」は「天下の台所」大坂で大坂町奉行の元与力が首謀者となって引き起こされた事件でした。

 筆まめな崋山は、天保4年以後も「蛮社の獄」(天保10年)に至るまで詳細な日記を記していたと思われますが、その間の日記はほとんど残されておらず(崋山自身が「蛮社の獄」の直前に焼却してしまったか)、唯一、出獄後田原の蟄居生活の中で記された日記(『守困日歴』)が残されているだけです。

 情報収集能力に長けていた崋山は、「天保騒動」・「三河加茂一揆」・「大塩平八郎の乱」などの情報を細かく集めていたものと思われますが、それらに対して崋山がどのような考えを抱いていたかは日記が残されていないために推測していくしかありません。

 「天保の大飢饉」は三河の小藩田原藩においてももちろん無関係ではなく、江戸詰家老の一人である崋山もその対処に追われることになりました。

 今までの学問で得た知識や旅で得た見聞や経験、画家として培った幅広い人脈などを総動員して厳しい事態に対応していくことになるわけですが、残念なことにその時期の日記は残されていません。

 崋山はその生涯においていくつかの旅をしています。

 数多くの旅ではありませんがその旅日記も残されており、いづれも魅力的な内容であることから、私はその崋山の旅を追って取材旅行を行い一冊の本をまとめました。

 あくまでも崋山という人物やその思想に迫るための取材旅行であって、最終的には渡辺崋山とその時代をテーマにして一篇の歴史小説を書きたいという思いがあります。

 歌川広重の『甲州日記』という日記をもとに甲州街道を歩いたのは、『天保騒動』を知るための取材旅行の一環でもあったわけですが、歩いてみて思ったのは、やはり明治以後の日本を知るためには江戸時代の日本、とりわけ江戸後半(文化文政期以後)の日本を知る必要があるということでした。

 いわゆる「江戸地廻り経済圏」を中心とする物や文化、人の動きを視野に入れておく必要があるということです。

 陸上交通(街道)や水上交通(海や川)による膨大な物や文化、人の動きをおさえておく必要があるということであり、甲斐一国をとってみてもそれは例外ではありません。

 甲斐を舞台に起きた『天保騒動』も、そのあたりのことを理解しておかないとわからないように思われます。

 甲州街道と富士川水運、そして相模川水運は、そのポイントとなるでしょう。

 崋山はその数少ない旅において、「江戸地廻り経済圏」など江戸を中心とした物流のポイントとなるような街道や町々を歩き、見聞を重ね、「物流」の重要さを認識していった人ではなかったかと思っています。

 その「物流」の問題は、三河田原藩一藩の努力ではいかんともし難い問題であることを痛切に感じ取っていったのが天保年間の崋山ではなかったか。

 もし「異国船」の来航など「外患」が発生すれば、その全国的な物流は深刻な影響を受け、「大飢饉」や大騒動がどこで発生するかわからない。 

 「将軍のお膝元」であり、大消費地である江戸もいつそうなるか知れないという深刻な危機意識が、洋学を通して世界情勢を知っていくにつれ高まっていったのが天保年間の崋山ではなかったか。

 とくに産業革命を経て帝国主義的な動きを示すイギリスの動きは、崋山にとって脅威でした。

 一方で崋山にとってこれからあるべき国のあり方のモデルを示唆してくれるのもイギリスをはじめとした欧米諸国でした。

 深刻に矛盾する対外認識の中で、「天保の大飢饉」を背景とする「内憂」への危機感を募らせていく崋山の姿を、今までの取材旅行の積み重ねをもとに描いてみたいと思います。

 またしばらくご無沙汰している中江兆民についても、そろそろまとめてみたいと思っていますが、明治近代を背景にして描くのはなかなか大変だとあらためて感じています。

 兆民関係の取材旅行もまだいくつか残っています。

 ということで、今年は「天保騒動」の舞台を訪ねること(山梨県)と、北前船の寄港地を訪ねる旅(新潟県)を中心として、幕末の物流や文化、人々の動きを探ることを継続するとともに、そろそろ渡辺崋山や中江兆民を主人公とした歴史小説の執筆にも取り掛かってみようと考えています。

 取材旅行や歴史小説の執筆以外にも、いろいろと取り組みたいことがありますが、それはボチボチとゆっくりやっていこうと思っています。

 とりあえず年頭の所感ということで、まとめてみました。

 今年も、相変わらずよろしくお願いします。

 

                     2018年 元旦 

                                 鮎川 俊介



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