勝沼宿で昼食を摂った広重は、栗原を過ぎて田中というところに差し掛かりますが、そこで「節婦之碑」というものにぶつかります。安兵衛という「らい病」を煩った夫とその妻お栗が、洪水があった時に2人でその洪水に身を投げて死んだ、という事件にまつわる碑。そのことが「上聞に達し、公より節婦の碑といふ印」を賜ったのだという。
石和宿に至ると、その入口の茶屋に「江戸講中」の人々が大勢休息している光景に、広重は出くわします。
この「江戸講中」も、先に広重が笹子峠を越えたところで出会い、勝沼宿まで道連れになった「江戸講中」と同じく、御坂みちをたどって(すなわち御坂峠を越えて)富士山方面に向かう道者の集団であると思われる。御坂みちは、この石和宿から河口村・上吉田村へと延びているからです。
彼らが河口村の御師に率いられていたとすると、彼らは、御坂峠を越えて河口村の御師の宿坊に泊まる予定であるに違いない。
広重は、その光景を見て、「殊の外賑(にぎや)か」としています。白装束の集団であったでしょう。
広重が、笹子峠より道連れとなった「江戸姉弟」は、道連れとしてたいそう面白い2人であったらしい。広重とその2人の間には、楽しい会話が交わされました。
この2人は、浅草において、「梅川平蔵」と「お仲」をよく知っている人でした。この「梅川平蔵・お仲」とは何者なのか、よくわからないが、どうも浅草に住んでいた人であるようだ。この「江戸姉弟」は、浅草に住んでいるようではないようですが、浅草において、「梅川平蔵・お仲」と知り合う機会があったのでしょう。
広重は、道中、この2人からその「梅川平蔵・お仲」のことを詳しく聞いているのです。
酒折宮に立ち寄った広重は、いよいよ甲府城下の中心地に足を踏み入れ、柳町で道連れであった「江戸姉弟」と別れ、七つ時分に、緑町一丁目の伊勢屋栄八宅に到着。久し振りにお風呂に入って旅の汚れを落とし、髪結いを頼んで月代(さかやき)を整えました。
この夜から、広重は伊勢屋栄八宅に逗留します。
翌6日の午前、広重はさっそく緑町一丁目の隣町である茅屋(かひや)町にある亀屋座に赴き、そこで「狂言伊達の大木戸ニ番」を見物しています。戻ってからは「幕御世話人衆中」に対面。酒宴にも参加しています。
「註」によれば、この「幕御世話人衆中」とは、「いわば道祖神祭礼幕絵作成にあたっての運営実行委員会」。このメンバーたちは、いずれも緑町一丁目の商人であり、表通りに家を構える割合富裕な町人」たちでした。
翌7日の午前には、歌舞伎役者である佐野川市蔵に会い、ふたたび亀屋座で芝居見物。
8日には、緑町一丁目の「幕御世話人衆中」とふたたび会っているようだ。この日の記述の中に、そのメンバーの名前が記載されています。
「註」によれば、そのメンバーは、
穀仲買商、味噌・酢・醤油商を営む高野屋庄兵衛
古着商の萬屋定右衛門
瀬戸物商、醤油商の岩崎屋彦左衛門
薬種商の福島屋勇助
古着・呉服商の辻屋仁助
「岩久殿」(詳細不明)
材木商、萬打物・鍋・釜商の権右衛門
提灯商の松葉屋忠兵衛
「川善殿」(詳細不明)
古着商の鳴海屋太郎右衛門
の10名。
これに広重が寄宿した伊勢屋栄八を合わせると11名。
この11名が緑町一丁目の「幕御世話人衆中」であったようだ。広重はその11名に合わせて、11枚の道祖神祭礼の幕絵を描いているようです。
9日には芝居見物をした後、甲府城下をぶらつき、境内に稲荷天神そのほかの末社がある一蓮寺というところに立ち寄っています。江戸とおなじように土弓場や料理茶屋などもありました。伊勢にある日蓮宗の遠光寺門前の料理屋で夕食を摂っています。
15日には、昼過ぎより一蓮寺に赴き、そこで「御幸(みゆき)祭禮」を見物。祭礼には、甲府城下およびその近在近郷の老若男女が群集していました。祭見物のために繰り出した人々で、通り筋はごった返しであったのでしょう。
19日にも広重は亀屋座に芝居見物に出掛けていますが、打ち出しの後、「三階にて酒盛」をしています。茅屋町にある芝居小屋亀屋座は、甲府城下で唯一公認された大劇場でしたが、それは「三階」で酒盛りができるように大きな建築物であったことが、この記述から判明します。
そして23日に日記の記述は終わっているのですが、おそらく続きはあったのでしょうが、現在は残念ながら残ってはいないようです。
広重が「御嶽(みたけ)道」、そして「身延道」を歩いたのは、その4月23日以後のことと思われます。
続く
○参考文献
・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館)
・『富士山御師』伊藤堅吉(図譜出版)
石和宿に至ると、その入口の茶屋に「江戸講中」の人々が大勢休息している光景に、広重は出くわします。
この「江戸講中」も、先に広重が笹子峠を越えたところで出会い、勝沼宿まで道連れになった「江戸講中」と同じく、御坂みちをたどって(すなわち御坂峠を越えて)富士山方面に向かう道者の集団であると思われる。御坂みちは、この石和宿から河口村・上吉田村へと延びているからです。
彼らが河口村の御師に率いられていたとすると、彼らは、御坂峠を越えて河口村の御師の宿坊に泊まる予定であるに違いない。
広重は、その光景を見て、「殊の外賑(にぎや)か」としています。白装束の集団であったでしょう。
広重が、笹子峠より道連れとなった「江戸姉弟」は、道連れとしてたいそう面白い2人であったらしい。広重とその2人の間には、楽しい会話が交わされました。
この2人は、浅草において、「梅川平蔵」と「お仲」をよく知っている人でした。この「梅川平蔵・お仲」とは何者なのか、よくわからないが、どうも浅草に住んでいた人であるようだ。この「江戸姉弟」は、浅草に住んでいるようではないようですが、浅草において、「梅川平蔵・お仲」と知り合う機会があったのでしょう。
広重は、道中、この2人からその「梅川平蔵・お仲」のことを詳しく聞いているのです。
酒折宮に立ち寄った広重は、いよいよ甲府城下の中心地に足を踏み入れ、柳町で道連れであった「江戸姉弟」と別れ、七つ時分に、緑町一丁目の伊勢屋栄八宅に到着。久し振りにお風呂に入って旅の汚れを落とし、髪結いを頼んで月代(さかやき)を整えました。
この夜から、広重は伊勢屋栄八宅に逗留します。
翌6日の午前、広重はさっそく緑町一丁目の隣町である茅屋(かひや)町にある亀屋座に赴き、そこで「狂言伊達の大木戸ニ番」を見物しています。戻ってからは「幕御世話人衆中」に対面。酒宴にも参加しています。
「註」によれば、この「幕御世話人衆中」とは、「いわば道祖神祭礼幕絵作成にあたっての運営実行委員会」。このメンバーたちは、いずれも緑町一丁目の商人であり、表通りに家を構える割合富裕な町人」たちでした。
翌7日の午前には、歌舞伎役者である佐野川市蔵に会い、ふたたび亀屋座で芝居見物。
8日には、緑町一丁目の「幕御世話人衆中」とふたたび会っているようだ。この日の記述の中に、そのメンバーの名前が記載されています。
「註」によれば、そのメンバーは、
穀仲買商、味噌・酢・醤油商を営む高野屋庄兵衛
古着商の萬屋定右衛門
瀬戸物商、醤油商の岩崎屋彦左衛門
薬種商の福島屋勇助
古着・呉服商の辻屋仁助
「岩久殿」(詳細不明)
材木商、萬打物・鍋・釜商の権右衛門
提灯商の松葉屋忠兵衛
「川善殿」(詳細不明)
古着商の鳴海屋太郎右衛門
の10名。
これに広重が寄宿した伊勢屋栄八を合わせると11名。
この11名が緑町一丁目の「幕御世話人衆中」であったようだ。広重はその11名に合わせて、11枚の道祖神祭礼の幕絵を描いているようです。
9日には芝居見物をした後、甲府城下をぶらつき、境内に稲荷天神そのほかの末社がある一蓮寺というところに立ち寄っています。江戸とおなじように土弓場や料理茶屋などもありました。伊勢にある日蓮宗の遠光寺門前の料理屋で夕食を摂っています。
15日には、昼過ぎより一蓮寺に赴き、そこで「御幸(みゆき)祭禮」を見物。祭礼には、甲府城下およびその近在近郷の老若男女が群集していました。祭見物のために繰り出した人々で、通り筋はごった返しであったのでしょう。
19日にも広重は亀屋座に芝居見物に出掛けていますが、打ち出しの後、「三階にて酒盛」をしています。茅屋町にある芝居小屋亀屋座は、甲府城下で唯一公認された大劇場でしたが、それは「三階」で酒盛りができるように大きな建築物であったことが、この記述から判明します。
そして23日に日記の記述は終わっているのですが、おそらく続きはあったのでしょうが、現在は残念ながら残ってはいないようです。
広重が「御嶽(みたけ)道」、そして「身延道」を歩いたのは、その4月23日以後のことと思われます。
続く
○参考文献
・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館)
・『富士山御師』伊藤堅吉(図譜出版)