鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

歌川広重の歩いた甲斐道 最終回

2009-11-29 07:49:36 | Weblog
 この11月の甲府滞在においても、広重は伊勢屋栄八宅を利用していました。それが分かるのは17日の記述。「明方迄萬やニ泊 栄八殿方出産有」とあります。「萬や」とは「萬屋定右衛門」のことで、ここに前日より泊まっていたということ。理由は「栄八殿」の家で出産があったから。

 「萬屋定右衛門」というのは古着を営んでいた商人で、「幕御世話人衆中」の一人。緑町一丁目の「幕御世話人衆」は11人で構成されていましたが、それぞれが各1枚の幕絵を広重に依頼したようです。

 18日に、広重は看板の彩色の仕上げを終えていますが、その夜の宴会が開かれたのもこの「萬屋定右衛門」宅でした。

 13日に、広重は麻布の幕に、墨で下書きを描きました。11枚の幕絵の最後の方の幕絵の下書きだと思われます。

 14日はその幕絵に彩色。15日に幕絵の作成は残らず終了。

 ということは一枚の幕絵を完成させるのに2日間を要した、ということになります。ということであれば、11枚すべての幕絵を完成させるためには、最低でも22日を必要としたということになります。休息日を入れれば、1ヶ月ほどの作製期間が予定されていたのかも知れない。

 幕絵は、横幅がおよそ10.7m、縦はおよそ1.6mほどかと思われますが、それだけ長大なものを2日間で完成させたとすると、これはたいへんな力技でもあったことでしょう。前半と後半、2回に分けての作業とはいえ、20日以上の制作日が続きました。当時広重は44歳。当時においては必ずしも若いとはいえない年齢。広重のエネルギッシュな創作姿勢がうかがえます。

 17日の夜には、幕絵の張り初めの儀式を行っています。この張り初めの儀式はどこで行われたのだろうか。完成した幕絵11枚全部の張り初めの儀式であるとすると、夜、緑町一丁目の商店の並ぶ通りに、仮に幕絵を飾ってみるという儀式を行ったのかも知れない。リハーサルのようなものです。夜に行ったということは、通りには灯りがともされ、幕絵はその灯りによってライトアップされたのかも知れない。その灯りに照らされた幕絵を、「幕御世話人衆中」をはじめとして、町の老若男女が鑑賞しているという光景を想像してみたくなる。

 19日、依頼されていた幕番付の仕事も終了。夜には荷物を江戸へ向けて送り出しました。

 そして20日の朝六つ(午前6時頃)時、広重は伊勢屋栄八宅を出立しました。堤燈商であった松葉屋忠兵衛(幕御世話人衆中の一人)が見送りとして同道。甲府城下の外れで松葉屋忠兵衛と別れた広重は、4月の時と同様、一人で甲州街道を江戸へと歩きました。

 その日六つ頃(午後6時頃)、上花咲の問屋に宿泊。信州の人と相宿になります。

 翌21日は朝六つ半(午前7時頃)に上花咲の問屋を出立。犬目峠の茶屋「しがら木」で休憩。上野原の「大ちとせ屋」で昼食。その日は与瀬宿の「稲荷屋」で宿泊。ここでは上辻屋進助という者と役者の川蔵という者と相宿になりました。上野原の小澤源蔵という郷士についての話を宿の主人(?)から聞いています。

 22日の朝、与瀬宿を出立。小仏峠を越え、八王子を過ぎ、多摩川を渡って、暮れ六つ頃(午後6時頃)、府中明神前の「松本屋」に泊まったところで、この日記は終わっています。

 江戸へと帰る道中においても、広重は相宿となった人々や宿の人と会話を楽しんでいることがわかります。

 甲府道祖神祭の幕絵11枚をすべて完成させたその充実感とともに、広重は江戸への道を急いだのでしょう。酒は彼の楽しみの一つでしたが、その充実感とはうらはらに、道中に飲んだ酒はいずれもまずいものでした。

 さて、広重は翌天保13年(1842年)の小正月、甲府道祖神祭に飾られた自分の描いた幕絵を見るために、甲府城下に足を運んだでしょうか。

 多くの老若男女が通りに飾られた幕絵を鑑賞する、その雑沓の中に広重を置いてみたくなりますが、その時期広重が甲府に足を運んだという確証はないようです。

 11月17日の夜中、幕の張り初めの儀式が行われましたが、広重はその時の夜の光景に十分満足していたのかもしれません。


 終わり


○参考文献
・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館)


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