鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.1月取材旅行「日本橋〜板橋〜戸田」 その10

2012-02-12 08:03:22 | Weblog
 「志村一里塚」バス停を過ぎると、左手に木造3階建ての立派な商家が見えてきました。黒い瓦葺きの屋根の重なりが重厚で、まるで小さな天守閣のようにも見える。

 その商家の左隣りに竹柵を巡らした木々の繁みがあり、また歩いている左側の歩道の先、左手にも竹柵を巡らした木々の繁みがあり、そこに「志村一里塚」の案内パネルが立てられていました。

 それによると、志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第三番目の一里塚。

 今日現存する一里塚は、全国的にも非常に希(まれ)なものであり、都内では北区西ヶ原と志村の2ヶ所だけとのこと。

 この「志村一里塚」交差点の、右手角の一里塚とその右隣の木造商家の景観は、かつての中山道の雰囲気をそれなりに感じさせるものでした。

 横断歩道を渡って、その右側の一里塚に近寄ってみると、車道側には歩道はなく、歩道はその一里塚を巡るように造られています。

 歩道を渡ってきた人や自転車は、この一里塚を右手に見て進み、木造商家の側面で右折し、そして車道に接した歩道へと出て左折することになります。

 両側の一里塚は、かつての位置のままであると考えられるから、その間はかなり広かったことになります。

 幅広の舗装道路を造る際に、右側の歩道を直線的に設けるためだとして、一里塚の一部を破損するということをしなかったのは、一つの見識であったといっていい。

 一里塚のまわりは石組みがなされて、しっかりと保全されています。

 3階建て木造商家のガラス戸には、「斎藤商店」とあり、窓格子には「平成4年度 活き粋いたばしまちなみ景観賞 中山道志村一里塚とその周辺 板橋区」と記された金属プレートが張り付けられていました。

 横断歩道を渡って左側の歩道へ戻って進んで行くと、まもなく都営地下鉄の「志村坂上駅」が左手に現れ、さらに進むと同じく左手に「国書刊行会」の看板が現れました。

 「国書刊行会」という出版社はここにあったのです。

 左斜め方向に延びる「城山通り」を越えると、左手に「みずほ銀行」がありますが、その右側をやはりやや左斜め方向に延びる道が旧中山道。

 2分ほど進むと、左手人家の角に石柱と案内板が立っているのが見えました。

 近寄ってみると、その案内板には、「「富士・大山道の道標と庚申塔」とあり、この場所は、中山道から富士・大山道が分岐する場所であると記されていました。

 また、向かって左側の道標は、寛政4年(1792年)に建てられたもので、正面には、「是より大山道并ねりま川こへみち」と刻まれ、右側の庚申塔は、万延元年(1860年)に建てられたもので、左側面に「是ヨリ富士山大山道」とあり、練馬・柳沢(西東京市)・府中への距離が示されている、とも記されています。

 ここから左へと折れる道が、かつては大山講や富士講の人々が大山や富士山へと向かう道であり、練馬を経て、府中から、大山へ向かっていったり、甲州街道を利用して富士山へと向かっていったことがわかります。

 左側の道標の側面(左)を見てみると、「武州豊島郡志村講」と刻まれ、また右側の道標にも、たしかに「是ヨリ 冨士山大山道 練馬柳沢府中」と刻まれていました。

 崋山がここを通過した時、左側の道標はこのあたりに存在していたことになりますが、周囲の景観は現在のそれとはまるで異なっていたでしょう。

 だだっ広い畑(大根畑など)の真ん中か、あるいは広々とした雑木林であったのかも知れない。

 さらに進んで行くと、道がやや右手へとカーブする手前左側に、「清水坂 戸田 板橋」と刻まれた新しい標柱が立っていました。

 この坂はS字状にカーブしながら下っていき、下りきった左手に同じ標柱と案内板が立っていました。

 その案内板には「清水坂」とあり、この坂が、日本橋を旅立ってから中山道最初の難所であったことが記されていました。途中大きく曲がっている坂であるために、中山道で唯一富士山を右手に一望することができる名所であったという。

 坂の下には、板橋宿と蕨(わらび)宿とをつなぐ「合(あい)の宿」があって、そこには、志村名主屋敷や立場(たてば)茶屋などがあって、休憩や、戸田の渡しが増水で利用できない時には控えの場所として利用されたといったことなども記されていました。

 崋山は、「志村」というところで、先を歩く男(それが生田万でした)に「たばこの火」を借りようと声を掛けましたが、それは、この清水坂の手前の志村一里塚付近だったのだろうか、それとも清水坂を下った「合の宿」である志村付近であったのだろうか。

 ここから先は、葦などが繁茂する湿地帯が両側に広がり、水鳥の鳴き声が聞こえてくるような細い縄手道でした。

 その案内板の前で道を右折し、都営三田線の架道橋を潜って中山道(国道17号線)へと出ると、そこが「志村三丁目」であり、まもなく「環八通り」を越えることになりました(15:02)。


 続く



○参考文献
・『板橋区史通史編 上巻』(板橋区)
。「史料から見る19世紀前半の板橋宿─その再現の試み─」吉田政博(『板橋区立郷土資料館紀要 第14号』所収論文)
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