鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

幕末維新の風景と浮世絵 その3

2007-10-01 06:02:05 | Weblog
 P58~59の絵は、「開港当時本町を主とした横浜全景」(作者不詳・万延元年〔1860〕)と題されている泥絵。泥絵というのは、顔料に粘土を混ぜた泥絵の具で描かれた絵。胡粉(ごふん)を多く使っていることから「胡粉絵」とも言われるようです。オランダ渡りの銅版画などを通して学んだ西洋流の透視画法に影響を受けながら、職人たちの手で大量に描かれたもので、多くは覗眼鏡(のぞきめがね)や覗きからくりを通して見る「眼鏡絵」として流通したらしい。この横浜を描いた泥絵は、大作であるから、眼鏡絵として利用されたものではなく土産絵(みやげえ)として描かれたもののようですが、紺色を基調とした色合いが美しい。江戸や各地の名所を描いた泥絵を見てみると、その遠近感の表わし方やすっきりした平明な画法、洗練された構図など、広重の風景画と共通したものがあるように感じられます。

 手前に描かれているのは弁財天社(弁天社)とその杜。まっすぐ奥に向かって延びている通りは本町通り。幅はかなり誇張されています。実際の幅は十間(約18メートル)ほどでした。通りの突き当たりにある小高い山は山手。右手の池のように見える太田屋新田の奥に見えるのは港崎(みよざき)遊郭と遊郭の至る道筋。港には埠頭が2つ突き出ていて、沖合には帆掛け舟と外国の軍艦が浮かんでいます。手前の海を行き来する舟は、横浜と神奈川を往復する渡し舟でしょう。右端には雪を被った富士山がそびえ、港の向こうには房総半島が伸びています。実景そのままではありませんが、横浜の特徴をよくとらえていて、壮大な景色の広がりが、海や空の紺色の色調とあいまってすがすがしささえ感じさせる。

 「鳥の眼」をもった五雲亭貞秀は、野毛の上空方向から「横浜本町景港崎街新廓」という絵を描いています。左に弁財天社、右端中央に港崎遊郭、手前に吉田橋と関門、画面左から右に延びる通りが本町通り。画面左上に日本人町、右上に外国人居留地が描かれています。波止場も2つあります。港崎遊郭のまわりは太田屋新田が広がっている。注意深く見ると、本町通りに並ぶ日本人商店の店先には暖簾(のれん)がかかり、外国人の建物のまわりには板塀が厳重にほどこされています。沖合には大小の帆船が浮かんでいますが、外国軍艦らしきものはなぜか描かれていない。

 P82~83の「神名川横浜新開港図」は、貞秀の代表作の一つ。弁財天社上空方向から、本町通りの賑わいを描いたもの。横浜にやってきたいろいろな風俗の日本人たちで、通りは満ち溢れています。手前左の店が江戸駿河町から出店した三井呉服店。手前右の店が江戸麹町から出店した伊勢屋。商店はどれも瓦葺で土蔵造りのようです。壁は真っ黒い漆喰(しっくい)塗りか海鼠(なまこ)壁。2階の格子窓だけが白く塗られていました。
手前左右に走る道は、本町通りと同じく幅十間の広い通りで現在の馬車道にあたります。

 貞秀は、波止場での「ドンタク」(日曜日)の外国人の踊りの様子も描いています(P100~101)。音楽隊のトップはサクソフォン、続いてコルネット、サイドドラム、トランペット、ホルン。実際に貞秀はこの情景を見て描いただろとのこと。行列する外国人は、左からフランス人、ロシア人、アメリカ人、イギリス人、オランダ人。場所は、右端に英一番館(ジャーディン・マセソン商会)が描かれているから、現在の開港資料館の前辺りということになる。

 P148~149の一川芳員の「横浜明細全図」(慶応4年)も面白い。横浜の全貌がよくわかる。居留地の地番や日本人町の通りの名まで詳細に記してあります。また周囲の神奈川宿や吉原町、山手の辺りも克明に描かれている。左手の元町の通りから山手に登って行くまっすぐの階段が描かれていますが、これは山頂の浅間神社に上がる石段で、百一段あったために「百段坂」と呼ばれたもの。関東大震災で崩壊してしまったために現在はありませんが、崖の上には今、「元町百段公園」があって、かつて「百段坂」があった名残りを示しています。その長い石段を下りて堀川を渡る橋が前田橋。堀川の河口付近にある橋が谷戸橋(やとばし)ということになる。この堀川はもともとあったものではなく掘削されたものです。手前の神奈川宿の一角に、海に向かって飛び出ている多角形の施設が神奈川前台場(砲台)。松山藩が勝海舟の設計にもとづいて築造したもの。神奈川宿を探索した時に訪れたところで、現在は石垣のみが残っています。

P156~157の「横浜交易西洋人荷物運送之図」は、貞秀が港の沖へ漕ぎ出し、外国船に接近して描いたというもの。左側にアメリカ船とその向こうにフランス船。右端はロシア船で、その間にイギリス船とオランダ船が描かれています。船の周辺には船に乗り込んだり上陸するためのボートが浮かぶ。波の音と飛び交う外国語の会話が聞こえてくるような、臨場感ある場面です。開港地横浜を知らぬ多くの人々は、この絵を見て驚きの声を発したことでしょう。

 『アンベール幕末日本図絵』のテロンが写真をもとにして描いたという「弁天にあるオランダ総領事館」(P180~181)の寺院のような建物があったところは、今の神奈川県立歴史博物館が建っている辺りであるという。「弁天」というのは「弁財天」のことで、現在の「弁天橋」の辺りにあった神社(弁天社)のこと。かなり広い敷地であったようですが、その付近を埋め立てて領事館を建設したという。慶応4年(1867年)の地図(一川芳員の『横浜明細全図』)を見ると、この弁天社の北隣には幕府の語学所と役宅が描かれています。この語学所では、パリ外国宣教会の神父であったカション(ロッシュなどフランス公使の通訳でもあった)が幕府の役人の子弟たちにフランス語を教えていたことがあります。

 神奈川宿にあったアメリカ領事館の所在地となる本覚寺(ほんがくじ)が描かれているのは、長谷川雪旦の『江戸名所図会』の「神奈川絵図」(P176~177)。手前に東海道と神奈川宿の青木橋付近が描かれている。「生麦事件」の時、薩摩藩士に斬りつけられたイギリス人マーシャルとクラークが逃げ込んだのがこのお寺(アメリカ領事館)。彼らは馬で逃げ込むのですが、疑問に思ったのは高台にある本覚寺に逃げ込んだ時、騎乗のまま門を入ったのか、それとも下で馬から下りて運び込まれたのかということ。本覚寺へ登る道は今は坂道になっていますが、当時はどうだったのか。その疑問を生麦事件参考館の浅海さんにぶつけた時、浅海さんが取り出してきたのがこの「神奈川絵図」でした。見ると東海道から中門まで石段が続いているのです。ここを2人は馬で駆け上がったのか、それとも歩いて登ったのか、それとも誰かに運ばれたのか、今でもわかりませんが、当時のアメリカ領事館の様子を知るのには、絶好の「歴史資料」と言えるでしょう。

 さて、このように見ていくときりがないのでこのあたりで止めることにしますが、この本の著者である宮野力哉さんは、福井県三国の船大工の末裔(まつえい)であるという。その宮野さんが初めて「横浜浮世絵」に触れたのは京都の古書店で、そこの額に入っていた絵が五雲亭貞秀の「横浜交易西洋人荷物運送之図」(前に説明した貞秀の傑作)で、船大工の末裔として宮野さんはたいへん驚き興奮したそうです。数年後、横浜に出て来てその絵が「横浜浮世絵」であったことを知るのですが、それを教えてくれたのが浮世絵収集家の丹波恒夫さんでした。

 それから宮野さんは「横浜浮世絵」に関心を持ち、この『絵とき 横浜ものがたり』もその延長線上で生まれたものであるらしい。

 一枚の絵(「横浜浮世絵」)との出会いが、宮野さんの人生を大きく変えたのかもしれません。


○参考文献
・『絵とき 横浜物語』宮野力哉(東京堂出版)
・『風俗画と浮世絵』〔日本美術全集22 江戸庶民の絵画〕(学習研究社)


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