鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

「生誕250周年 谷文晁」展について その5

2013-09-03 05:22:40 | Weblog
崋山が入門して学んだ文晁の画塾「写山楼」とは、どういうところだったのか。それがよくわかるのが野村文紹が記録した「写山翁之記」。解説によれば、これは晩年の弟子の一人である野村文紹が、写山楼の天保期(1830~1844)初め頃の様子を記録したもの。写山楼は二長町(二丁町)にあり、それは現在の東京都台東区にあたるという。画塾は2階建てで、2階の窓からは富士山がよく見えたとのこと。写山楼の「山」とは富士山を現すともいわれ、文晁の得意画題であるとともに、画壇の富士になるという意味を込めたとする説がある、という。この写山楼の様子がよくわかるのが、「天保初年中 寫山楼上日々来客之圖」であり、それによれば、大広間の正面には「選畫場」の額が掲げられ、その下の大きな机の前で、文晁が筆をふるっており、その文晁の右隣には後妻の阿佐子が控えています。画面向かって左では、文二がもう一つ机を出して絵を認め、その手前の毛氈で絵を描いているのが文一の実子である文中であるという。婿養子の文一とその妻お宣(文晁と幹々の間に生まれた娘)の間には男の子(文中)がいたことになります。写山楼の玄関先の門と2階建てのその建物も描かれており、それから判断すると、文晁が絵筆を振う大広間は2階部分にあり、その大広間の窓からは富士山を望むことができたのです。崋山はこの2階の大広間で、文晁や文一らから絵を学んだということになります。 . . . 本文を読む