鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.1月取材旅行「日本橋〜板橋〜戸田」 その最終回

2012-02-14 06:10:21 | Weblog
『板橋区史通史編 上巻』によると、高野長英が、板橋宿にいる弟子の水村長民を訪れたことが記されていました。それによると、長民というのは医師水村多仲の養子であり、水村玄銅の親にあたる人。長英が水村長民宅に姿を現したのは弘化元年(1844年)の六月晦日の夜四ツ時(午後8時頃)のこと。長民が家の前で小便をしていたところ、長英が、供の者一人を連れて現れたのだという。その時、長英は、木綿紺大名縞の単物を着用し、鍔(つば)がなく鮫柄の短い脇差を帯び、足には紺色の脚絆を履いていました。供の者は年齢23、4歳ほど。紺白くずし縞の単物を着用し、紺の脚絆を履き、長い脇差を帯びていました。長英は、奥州仙台へ向かうつもりであること、落ち着いたら後藤清吾という名で訪れることもあるかも知れないということ、郷里の水沢へ立ち寄るかも知れない、といったことほ長民に語ったらしい。長民は、長英を武州足立郡大間木村に住む実兄高野龍仙の家まで届け、長英と龍仙とは、三宅村(大宮市)の字(あざ)柴原の畑の中の四ツ角で別れたとのこと。長英が小伝馬町の牢屋敷に放火させて、それに乗じて脱獄・逃亡したのは、弘化元年の六月晦日の午前2時頃(丑三ツ時)であったから、その日のうちに変装し、供の者を連れて、中山道板橋宿に姿を現したということになる。つまり脱獄当日の夜に、奥州仙台方面へ向かうために門弟(水村長民)を頼って板橋宿に現れたということになり、佐藤昌介さんの『高野長英』に紹介されている高野長運の『高野長英伝』の説とはおよそ1ヶ月のずれが生じることになります。長英は脱獄後、すぐさま変装し、その日のうちに奥州方面へ向かうべく(警戒が厳しくなるであろうことが予想される奥州街道は避けて)江戸市中から逃亡していたことになります。 . . . 本文を読む
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