鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.10月取材旅行「小名木川」その5

2010-11-05 07:15:08 | Weblog
『新編川蒸気通運丸物語』によれば、外輪型蒸気船通運丸が営業を開始したのは明治10年(1877年)5月1日のこと。東京深川の扇橋より午後3時に出船。扇橋→小名木川→中川→新川(船堀川)→江戸川→関宿を経て利根川筋を航行するものでした。「野州生井村迄二日より出船致候」(『郵便報知新聞』)とあるからには、2日からは栃木県の思川沿いにある生井(なまい)村まで通運丸は関東の川を遡っていきました。生井村は、古河と小山の間の陸羽街道に近い村だというから、小山方面へ向かう客は終点の生井まで赴き、そこで上陸して陸羽街道に入って小山方面へと向かったものと思われます。蠣殻(かきがら)三丁目から通運丸まで艀(はしけ)が出ていたというから、東京から、行徳・市川・松戸・流山・野田・関宿・境・古河・小山方面へ向かう人々は、蠣殻町から艀に乗って扇橋の通運丸に乗り込むか、直接深川扇橋まで行って通運丸に乗り込んだということになる。小名木川の両岸は、通運丸の通航を一目見ようと黒山のような人だかりであったという。この通運丸の行き先は、思川では生井村からさらに乙女河岸(現在の小山市内)まで延長され、渡良瀬川では明治14年(1881年)11月に笹良橋を経て早川田まで延長され、巴波川では明治16年(1883年)6月になると新波(にっぱ)河岸まで延長されました。行き先は、霞ヶ浦高浜河岸、中山道戸田河岸、武州北河原河岸、下総寒川港、下総銚子港、常州鉾田河岸(霞ヶ浦)、安房の館山(明治17年〔1884年〕12月)、相模の三崎(明治19年〔1886年〕5月)までとどんどん拡大していきました(出船地は、蠣殻町三丁目河岸や両国橋際の米沢三丁目河岸などに移されている)。この通運丸の隆盛に翳(かげ)りが見えてくるのは鉄道網の普及。明治20年代後半の総武鉄道の開通や日本鉄道による常磐線などの開通でした。それでも明治末から大正へと運航はなされていましたが、山本鉱太郎さんによれば、「古老たちの幾つかの証言を考えあわせると、通運丸はどうやら昭和四、五年頃まで気息えんえんのていでも、とにかく江戸川や利根川を走っていたようである」とされ、昭和5年(1930年)頃までは細々と命脈を保っていたものらしい。つまり、通運丸は明治から大正を経て昭和初期まで、およそ半世紀の歴史を生き続け、ついに時代の流れの中で消えていったということになるのです。 . . . 本文を読む