鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

東海道の「いちはつ」の花 その4

2009-05-07 07:12:07 | Weblog
「二ヶ領用水」についてもう少し詳しく知りたいと思ったところ、史料をもとに簡潔にまとめられたものとして参考になったのは、『史料が語る神奈川の歴史60話』遠山茂樹・神奈川県史料編集委員会(三省堂)の「小泉次太夫と二ヶ領地用水」(長島保)でした。それによれば、小泉次太夫の出身地は、駿河国(現静岡県)富士郡小泉郷で、先祖は鎌倉時代初期より富士郡小泉郷で樋(とい)役(樋代官)を勤めてきた家柄でした。父親である植松右近助康清(うこんのすけやすきよ)は、先祖が構築した鷹岡伝法用水路の再興に力を尽くしたという。「このような家に幼壮期をすごした次太夫は、なんらかのかたちで用水土木の技術的素養を培ったものと思われる」とありますが、まだ十分には解明されてはいないようです。今川家の家臣であった次太夫吉次(よしつぐ)が弟清安とともに徳川家康の軍勢に馳せ加わって軍功を上げ、小泉姓を賜って家康に奉公を勤めるようになったのは天正10年(1582年)のことであるらしい(織田信長が甲州の武田氏を征討した際に、富士山の麓に出張った敵を追い払うのに戦功をあげる)。慶長2年(1597年)には多摩川下流域の低地に新用水を掘削するための測量作業が開始されており、次太夫は多摩川両岸を交互に往来して二筋の用水堀の測量を行った後、慶長6年(1601年)正月より用水掘り立て工事に着手。慶長16年(1611年)にはすべての工事が完了。東岸の六郷用水と西側の二ヶ領用水が、測量開始以来14年の歳月をかけて完成しました。この二筋の用水の完成により、「多摩川両岸四か領の地域は新用水堀の恩恵に浴し、村づくりや地域発展が推進された」とあります。同書P138に掲載されている「稲毛川崎二ヶ領用水路全図」を見てみると、多摩川と矢上川・鶴見川に挟まれた地域に、この二ヶ領用水の水が隅々まで行き渡っていることがわかります。私が歩いた二子・溝口・諏訪・北見方・宮内などもそう。享保2年(1717年)においては灌漑面積は60ヶ村2007町歩余、支配石高は2万6000石近くに達しています。この地域の新田開発や農業生産の飛躍的増大にきわめて大きな役割を果たした用水路であったことがわかります。工事がすべて完成した時、小泉次太夫は73歳でした(59歳で測量に取り掛かる)。 . . . 本文を読む