鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008.8月「村山浅間神社~中宮八幡堂」取材旅行 その4

2008-08-07 07:25:15 | Weblog
畠堀操八さんの『富士山・村山古道を歩く』は文字通りの労作ですが、その文章の記述の中で印象に残った一つは、嘉永5年(1852年)に、丹後宮津藩の松平伯耆守(ほうきのかみ)が、参勤交代の折、夜遅くに吉原宿から抜け出して村山の坊で仮眠し、翌日、山頂で昼食を摂った、という記述(P29)。嘉永5年というと、ペリー艦隊が浦賀沖に来航する前年。富士登山(富士詣で)などというのは、オールコックが富士登山の旅行を提案した時、幕閣がその反対の理由としたように、「下賎」の者たちが行うものであって、身分の高い武士がやるものではない、とされていました。ましてやれっきとした大名(藩主)が富士登山をするなどとは、考えられもしない時代でした。それも参勤交代の最中に……。この記述がどういう出典にもとづくものであるかは、わかりませんでしたが、オールコックが外国人として初登頂する1860年の7年前に、富士山に登った大名がいたのです。これは驚きでした。なぜ、登ろうとしたのか。案内はとうぜんいたと思われますが、どう手配したのか。「お忍び」とは言え、数人の付き人(家来)はいたはず。何人くらいが付き添ったのか。どういう経路をたどったのか。村山口より登ったのは確かでしょう。では、その村山まで吉原宿からどういうルートをたどったのか。吉原宿から中宮八幡堂までは、おそらく騎馬で進んだに違いない。夜遅く吉原宿(本陣)を出発したということは、真夜中の道を、夜行したのでしょう。村山の坊で仮眠したということは、興法寺のどこかに泊まったということ。そして、早朝に村山を出発して(すなわち村山口登山道にとりついて)、その日の昼頃には富士山の頂きに立ったというのです。畠堀さんが記すように「信じられないスピード」です。この「丹後宮津藩の松平伯耆守」とはいったい誰か。ネットのフリー百科事典『ウィキペディア』で調べてみると、該当するのは、松平宗秀(むねひで・1809~1873)。丹後国宮津藩の第6代藩主で、弘化3年(1846年)に奏者番となり(再役)、安政5年(1858年)に寺社奉行を兼任。大坂城代、京都所司代を経て、元治元年(1864年)に老中となっている人物(慶応2年〔1866年〕老中免職、隠居)。亡くなったのは明治6年(1873年)。ということは、宗秀が富士登山をしたのは、43歳の時ということになる。なぜ彼は、富士山に登ったのか? . . . 本文を読む