堺から日本へ! 世界へ!

堺の歴史・文化の再発見、再生、創造、魅力情報発信!

堺ユネスコ協会 ESD研修会-近畿ESDコンソーシアム

2017-07-22 23:55:25 | 歴史

平成29年度 近畿ESDコンソーシアム 総会

日時:平成29年7月8日(土) 午後1時30分~4時30分   場所:奈良教育大学 大会議室(管理棟2階)

                                                                            総会議題:
                                                                                      1.開会あいさつ
                                                                                      2.出席者自己紹介
                                                                                      3.近畿ESDコンソーシアム規約について
                                                                                       エリア教育を目指して「奈良教育大学ESDコンソーシアム」を
                                                                                       「近畿ESDコンソーシアム」と改称し規約を変更した。
                                                                                      4.平成29年度近畿ESDコンソーシアム事業計画

ESD研修会


「2005~2015年:ESD ⇒ 2016~2030年:SDGs 移行について」 
近畿ESDコンソーシアム 事務局 中澤静雄氏

 ミレニアム(2005~2015年)開発目標(MDGs)の成果を土台としながら、あらゆる形態の貧困に終止符を打つための取り組みをさらに進めることをねらいとして日本が主導して国連に提唱した「持続可能な開発目標(SDGs)」が2016年1月1日に正式に発効した。
 旧来の「持続可能な社会づくりの担い手を育成すること」(ESD)を目標とした教育から、2030年を目途に「だれ一人取り残さない世界の実現」を目標とする教育の実現を目指すことになった。

 


「国連 持続可能な開発目標(SDGs)の理解と学校実践をつなぐ」
講師 東京都江東区立八名川小学校 教諭 小野瀬 悠里 氏

 八名川小学校はSDGsの取組として「指導目標」ではなく「評価(成果)指標」を目標とした。
 つまり、課題の「入口」というよりは、「出口」にあるものに問題意識を置いた。
       ◆テーマ:「しん(進、芯、心)のある子の育成―カリキュラム・マネージメント~学習過程の確立」
    ◆テーマの狙い:①学びに火をつける、②追求する(探求型の学び)、③まとめる力をつける。
    ◆目標の選択:SDGs目標8「経済成長と人間らしい仕事」
            若者の完全失業率10%、学校から社会へ移行できていない
              ⇒未来(10年後、特に1年後)志向の学び  ⇒「未来に羽ばたけ!~小学校卒業研究~」
    ◆日常活動: 対話的活動
           八名川小学校の立地条件(松尾芭蕉:江東区深川地域のアイデンティティ)を踏まえ俳句による対話(*)を活用した。
               *:作句(季節を感じる言葉を精選) ⇒ 句会(互いの良さを表現する、互いの良さを認め合う)
    ◆成果と展望:
      成果:子どもの視野が広がった。将来への考え方について変容が見られた。「生き方」、「生き様」
      展望:「八名川の出口」⇒八名川で学んできた意味を最後に振り返る。八名川のESDの集大成
                    ⇒疾風怒濤の時代をどんな目的意識をもって生きていくか

  

 

その他のESD活動における注目点
「東大寺寺子屋」 教育と宗教の関わり方についての判断のあり方

 当初は、教育と宗教の関わり方について議論の対象となり、その課題を「世界文化遺産としての登録基準」(*)に照らしてクリャーした。
  *:該当基準
     2.ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観
           デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
     3.現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
     4.人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
     6.顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と、
       直接にまたは明白に関連するもの

 

 

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堺ユネスコ協会 「世界文化遺産」研修会

2017-07-22 23:54:52 | 世界遺産登録を目指して!

彦根ユネスコ協会 「世界文化遺産」研修交流会


                                日時:平成29年7月2日(日) 午前10時~午後4時
                                場所:堺市博物館、百舌鳥古墳群、さかい利晶の杜
                                指導:堺市・世界文化遺産推進室、堺市博物館
                                参加者:彦根ユネスコ協会 会員 計18名(バス訪問)
                                     堺ユネスコ協会  会員 計  6名

1.「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産登録について 午前10時~11時30分
 1)VR映像「百舌鳥古墳群 ― 時を超えて ―」上映鑑賞(シアター)

 

   2)解説・講義 講師:堺市世界文化遺産推進室 

 

  ①「歴史・文化のまち 堺」
          古代⇒中世⇒近代⇒現代⇒未来、「大阪」は昔は海だった、もののはじまりなんでも堺
  ②「百舌鳥・古市古墳群」について
     百舌鳥古墳群の概要、古市古墳群の概要、宮内庁との連携(百舌鳥古墳群、古市古墳群、
     同時調査・現場見学会開催(御廟山古墳、ニサンザイ古墳)
  ③世界文化遺産登録実現に向けて
     経過説明、体制づくり、役割分担、シンポジウム開催(大阪、東京)
    堺市独自の取組
     堺まつり、市内各区民まつり、世界文化遺産講演会開催
    市民主体の取組
     「百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産を登録応援する堺市民の会」設立(平成27年6月)現在会員2万人
     「仁徳陵をまもり隊」(平成18年以降、年2回古墳周囲清掃活動)
    民間企業・団体などの取組
     大阪府立工科高等学校(ペットボトルキャップアート制作、いたすけ古墳水質浄化)
     金融機関・南海電車PRポスター制作展示
  ④「百舌鳥・古市古墳群」の推薦書原案について
    概要
     〇古墳時代中期(4世紀後半~5世紀後半)に築造され、多様な形と大小さまざまな規
      模の古墳が密集して造られる。
     〇列島最大級の前方後円墳が築造され、全国各地の古墳づくりの見本とされた。
     〇古墳は葺石や埴輪で飾られた。また、墳丘を掘り込んで埋葬施設が造られた。
      墳丘そのものが埋葬の祭りの舞台であった。
    構成資産について
     〇現存89基から古墳時代中期に属し、かつ保存状況の良好な古墳49基45件(百舌
      鳥エリア23基21件、古市エリア26基24件)の古墳を選択
    顕著な普遍的価値
     〇二つの基準を適用
      基準(ⅲ):文化の物証
        ◆古墳=被葬者の地位の表現 ヤマト王権の影響下の文化
        ◆百舌鳥・古市古墳群 各地の古墳築造の中心
      基準(ⅳ):歴史上重要な建築物の顕著な見本
        ◆巨大かつ整美な墳丘=土製モニュメント、儀礼の舞台、大規模な労働力、
     高度な技術
                 ◆百舌鳥・古市古墳群 古代応募の顕著な見本
  ⑤来訪者を迎える「おもてなし」について
    〇古墳を身近に体感してもらえるよう、履中天皇陵北側にビュースポット(視点場)を整備(平成29年5月末完成)
    〇「古墳」の価値や雄大きさを知ってもらうために、「(仮称)百舌鳥古墳群がダンス施設」を建設(平成31年会館を目指す)
    〇堺市博物館に百舌鳥古墳群ガイダンスコーナーを開設
      迫力ある映像で、世界最大級の墳墓・仁徳天皇陵古墳をはじめとする百舌鳥古墳群の雄大さを体感していただけるよう
      大型スクリーンで上映する百舌鳥古墳群シアター、百舌鳥古墳群展示コーナーなどを設置
    〇みんなが快適で安心・安全に使えるおもてなしトイレを整備(だれでもトイレ・キッヅトイレ)
    〇さかい利晶の杜や由緒ある神社仏閣のある旧市街地エリアと世界文化遺産登録を目指す仁徳天皇陵古墳や博物館のある大仙公園
      エリアを乗り換えなしで巡ることができる。

2.堺市博物館常設展示視察 午前11時30分~

 

3.昼食交流 Café IROHA(大仙公園内) 12時~13時

   

歓迎の挨拶 堺ユネスコ協会 今堀副会長           会食 自己紹介を兼ねて交流会

4.百舌鳥古墳群視察 午後1時~3時
  基本コース:(A班、B班 各班逆廻り)
   仁徳天皇陵⇒履中天皇陵視点場⇒いたすけ古墳⇒仁徳天皇陵正面(記念写真撮影)

   
仁徳天皇陵 正面 概要説明              履中天皇陵 視点場

 
   いたすけ古墳(猛暑のためか、タヌキの出迎えなし)

 昭和30年(1955年)頃、土砂の採集と住宅造成のため破壊されそうになったが、市民運動によって保存された。その際、後円部から出土した衝角付冑の埴輪(堺市博物館所蔵)は、現在、堺市の文化財保護のシンボルマークになっている。
 この工事の際には、土砂を取る重機を入れるため周濠に橋が架けられ、樹木の伐採が行われた。伐採は半ばで中断されたものの、古墳の半分ほどがはげ山となった。橋は現在でも古墳側から伸びる半分が残されている。タヌキが住んでいるが、暑い為か今日はお出迎えなし。


 
大阪府立堺工科高等学校生徒によるいたすけ古墳堀の水質浄化システム研究説明


参加者 

5.さかい利晶の杜企画展「FUN FUN KOFUNTEN」視察 午後3時30分~

 

 

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世界から「堺」へ日本へ! 1.その出会いの歴史年表

2017-07-22 23:54:17 | 歴史

世界から「堺」へ 日本へ! 1.その出会いの歴史年表

< 関連情報 >
  「世界と日本が出会うまち・堺 2017」プロジェクト こちらから 
  
主 催 堺市(主管:堺市博物館)/大阪大学(主管:大阪大学歴史教育研究会)
  後 援 大阪府教育委員会 【協 力】堺ユネスコ協会/同プロジェクト研究会

         世界から「堺」へ  日本へ! 2.大航海時代とアジア貿易圏の交易メカニズム こちらから
              3.堺の誇り「伝統産業」 はこちらから

 

上「表」の拡大はこちらから

 堺で最初に人が生活したところは、今から15,000年ほど前の旧石器時代にさかのぼり南花田(北区)といわれ、その遺跡から当時使用していた石器が多く出土し発見された。
 縄文時代から弥生時代にかけて、石津川流域の台地で四ツ池遺跡が発見され、和泉地域を代表する集落が営まれていたことが解明されている。
 集落の周囲には、溝や河川が張り巡らされ、三方を崖と自然の河川に囲まれた3.5ヘクタールの地に「クニ」と呼ばれる集落(ムラ)が形成され、石津川を利用して、直接、茅渟(チヌ)の海(現大阪湾)に漕ぎ出す舟運の便に恵まれていた。
 そのムラには、水耕稲作の文明があり食糧の大量生産体制が整い、大、中規模の墓が存在し死生観の存在したムラであった。さらに農耕祭礼の道具として銅鐸も発見され金属器を使用した文化が考証されている。
 時代が下って古墳時代(4~5世紀後半)には、当時最先端の土木技術を結集して大仙陵をはじめ規模の大小、墳形の多様な古墳群が川上の丘陵地に築造された。
それらの古墳の造成のために働く人々の生活を賄うため泉北丘陵には朝鮮半島からの技術により600~1,000基にわたる窯が築かれ、大規模な須恵器の生産基地として平安時代まで500年もの間栄えた。
 石津川の流域は、周囲の土壌の養分に恵まれ作物の育成に適し、人が生活するに必要な水の供給、さらに大型古墳の築造に必要とする資材の運搬を助け、堺の文明発達史上重要な役割を果たした。
 特に、河内の石津原の地域には大仙陵をはじめとして大型の前方後円墳が多く、大王(おおきみ)の支配するクニ(倭国)があったことが考察されている。
 当時、倭の王権は、鉄資源を確保するため朝鮮半島に関心を持っていた。朝鮮半島と交流が深まる中、北部の大国・高句麗の南下政策は、倭国にとって緊張感があった。そこで、倭国は中国南朝の東晋、その後宋へ遣使・朝貢(*)することによって高句麗に対抗しようとした。
 中国の歴史書『宋書』倭国伝に「宋」国に対し倭の五王「讃」(421年)、「珍」(438年)、「済」(443年)、「興」(462年)、「武」(478年)が遣使・朝貢したとことが記録され伝わっているが、どの古墳が誰に相当するのかは明らかではない。

 538年、百済から仏教が伝来し、663年、朝鮮半島南部・白村江の戦で百済が新羅に攻め立てられ、天智天皇の命により援軍を派遣したにもかかわらず新羅に敗退して百済から渡来人が増え、地域豪族が建立した寺には仏像が伝来した所がある。
 奈良時代、百済系渡来人の末裔と伝わる行基は、師・道昭の教えに従い飛鳥寺での修業を断念し生まれ故郷に帰郷した。生家を家原寺として改修し民衆救済のための仏教布教に専念した。 池溝開発や道端造営のほか布施屋、施薬院の設置など民衆のために尽くした。
土師郷(中区)に大野寺を建立した際、その境内に民衆の力による作善行の土塔(国史跡)を建立し、その偉業は民衆が力量に応じて参画し目的を達成る現代のNPO活動の先駆けとして高く評価されている。
 中世には長尾街道、竹内街道、高野街道、熊野街道など街道が整備され、高野山や熊野神社など浄土信仰の社寺参拝が盛んになり、堺はその通過都市の位置づけにあった。
 応仁・文明の乱(1467~1477年)後、寛正6年(1465)の第12回遣明船は、西軍の大内氏が制圧した瀬戸内海と兵庫港を避け土佐沖を廻る南海航路を通り、文明元年(1469)初めて堺港に入港し朝貢貿易に関わることになった。
 文明8年(1476)第13回以後大永3年(1523)まで堺から5回遣明船が派遣され、兵庫に代わり国際貿易港として発展した。
<対明貿易の朝貢の条件>
  朝鮮:1年に数回、琉球:1~2年に1回、日本:10年に1回

 世界的な商業都市として、ヒト、モノ、カネ、情報が集積した堺の繁栄は、遣明船が初めて堺港に入港した1469年から大坂夏の陣で兵站基地として狙いをつける徳川方に堺を渡すのを避けるため豊臣方の大野治房一隊によって焼き打ちされるまでの146年間であった。
 その間、1550年までの前半は遣明貿易および仲介貿易に従事する琉球貿易が盛んとなり、フランシスコ・ザビエルが堺の港に上陸した1550年以降1615年までの後半はポルガルを主とした大航海時代の南蛮貿易の拠点として西洋文明に触れる世界の情報センターの役目を果たした。

 ヨーロッパでは、永い間イスラムに制圧されていたポルトガルとスペインで民族主義が盛り上がり、強力な国王を中心として中央集権制度が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立した。
 さらに技術的に頑強な船が建造され、羅針盤がイスラムを通して伝わったことから航海技術の発展により外洋航海が可能になり、1415年、モルッカ諸島(別称:香料諸島)への独自の交易ルートの開拓を目指してポルトガルとスペインが競う大航海時代が始まった。
 1543年、ポルトガル人が乗った倭寇船が種子島に漂着して鉄砲が伝えられ、鉄砲の模作に成功した種子島の鍛冶屋集団の中にいた堺の橘屋又三郎が鉄砲製造技術を堺に持ち帰った。堺では、分業生産方式でによって大量生産に成功し、以後一大鉄砲生産地として名乗りを上げ日本における戦いの戦術文明の転換を誘導した。

 1549年、鹿児島に到着したフランシスコ・ザビエルは、1550年1月天皇への謁見を目指して堺港に上陸し都を目指した。天皇への謁見の目的は果たすことはできなかったが、引き続きガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスなど宣教師が堺に上陸しキリスト教というヨーロッパ文明の普及が始まった。
 1581年、日本での布教が伸び悩んでいることを案じて巡察師・アレサンドロ・ヴァリニャーノが堺港に上陸し、フロイスを伴って五畿内の布教状況を巡察し、日比屋了珪宅での体験をもとにルイス・デ・アルメイダの見聞を受け入れ、「日本の風習と形儀に関する注意と助言」を著して「修道院や教会を建築する際には、日本の大工により日本風に建築し、階下には縁側がついた二室からなる座敷を設け、そのうち一室は茶室に当てるよう」指示した。
 宣教師として中心的に布教に務めたルイス・フロイスは、「茶室は、その場が清浄であるために、人々に地上の安らぎを与えるので、キリシタンたちも、異教徒たちも、その場を大いに尊重している。司祭としてそこでミサ聖祭を捧げ、キリシタンたちとそこに集まった」と本部に報告した。
 1600年、オランダ船「リーフデ号」が豊後に漂着(4月)し、豊臣政権の五大老の筆頭を務める徳川家康の命で堺港(5月)に曳航され、オランダ人船長に代わりイギリス人航海士・ウィリアム・アダムスが徳川家康の取り調べに応じた。
 オランダとイギリスは、ポルトガルやスペインのようなカトリック教国ではなく、プロテスタント教国としてキリスト教布教を目的にしていないことが評価され、さらにアダムスの航海技術と造船技術が注目され徳川家康はアダムスを外交顧問として処遇し、その後のオランダおよびイギリスとの交易の布石となった。
 リーフデ号には大砲など武器・火薬が積まれており、徳川家康にとってはその後の関ケ原の戦い(10月)の戦備強化に役立った。アダムスは帰化し三浦按針を名乗り徳川家康の旗本に処遇され250石の所領を与えられた。
 1604年、生糸の輸入に関し外国商人が価格決定の主導権を有して利益を独占していたため、これを抑える必要に迫れ、幕府は京都・堺・長崎の特定商人に糸割符仲間をつくらせた。糸割符仲間には輸入生糸の価格決定と一括購入を許し、それを個々の商人に分配させた。
堺のこの糸割符貿易には、薬種、香料、反物等の唐物取引が付随しており、堺商人は有利な立場にあった。

 17世紀後半以降、商業都市としての大坂の繫栄の一方、堺は鉄砲産業に由来する金属加工技術をもとに18世紀初頭にかけて打ち刃物産業への転換が進んだ。織物産業は江戸中期の絹織物から木綿織物へと移行し、酒造りなど醸造業や香料を原料とする線香産業、石津川流域の木綿晒業など、現代の伝統産業の萌芽の時期を迎えていた。
 1858年、日米修好通商条約が締結し、日本の主要港が開港され外国船の渡来が増えた。1868年2月、測量調査のため堺港に入ったフランス軍艦デュプレー号乗り組兵士と幕府直轄地・堺を警護中の土佐藩士が衝突して、フランス水兵11名を殺傷する堺事件が起こった。
 明治に移り、1897年(明治30年)、河口慧海は人々が分かりやすい正確な和訳の大蔵教(仏典の集大成)を作り日本国民の大安心(心が安らぎ動揺しない境地)の基礎づくりを目指し、単独でヒマラヤを超えインド、チベットへ探検し仏教文物収集を行った。  

               
南海電鉄「七道」駅前 河口慧海銅像                     A・堺アセアンウイークポスター

 堺は、古代より積極的に国際交流が行われ、中世には世界的な商業都市としてヒト、モノ、情報の集積する国際都市として多くの国との交流があった。特に、アジア諸国との関係が深く、そのDNAは現代にも引き継がれ、2006年より「堺歴史文化交流会議」が開催され、「堺で出会う東南アジア」市民交流アセアンウィークが毎年「堺まつり」に合わせて10月に開催されている。

<引用文献>
     1.小葉田 淳編集代表1976『堺市史 続編第六巻』堺市役所
     2.小葉田 淳編集代表1971『堺市史 続編第一巻』堺市役所
     3.朝尾直弘・榮原永遠男・仁木 宏・小路田泰直1999『堺の歴史-都市自治の源流』角川書店
     4.堺市立埋蔵文化センター2002『四ツ池遺跡-弥生時代編』堺市教育委員会
     5.角山 榮2000「堺-海の都市文明』PHP研究所
     6.桃木至明・角山 榮監修2009『アジアの海がはぐくむ堺-中近世の港町ネットワークを掘り起こす』堺市市長公室国際部
     7.吉田 豊2009「近世初頭の貿易商人」『近世初頭の海外貿易と陶磁器』関西近世考古学研究会
     8.堺市ホームページ 観光・歴史・文化 http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/index.html
     9.以下ホームページ
        堺市博物館、みはら歴史博物館、さかい利晶の杜、堺市立文化館、堺伝統産業会館、堺自転車博物館


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世界から「堺」へ 日本へ! 2.大航海時代とアジア貿易圏の交易メカニズム

2017-07-22 23:53:52 | 歴史

世界から「堺」へ 日本へ!  2.大航海時代とアジア貿易圏の交易メカニズム

< 関連情報 >
  「世界と日本が出会うまち・堺 2017」プロジェクト こちらから 
  
主 催 堺市(主管:堺市博物館)/大阪大学(主管:大阪大学歴史教育研究会)
  後 援 大阪府教育委員会 【協 力】堺ユネスコ協会/同プロジェクト研究会

 

                                世界から「堺」へ 日本へ!
                                      1.その出会いと歴史年表 はこちらから
                                      3.堺の誇り「伝統産業」 はこちらから

 大航海時代
 ヨーロッパでは、他の諸国に先駆けて、永い間イスラムに制圧されていたポルトガルとスペインで民族主義が盛り上がり、強力な国王を中心とした中央集権制度が確立した。さらに技術的に頑強な船が建造され、羅針盤がイスラムを通して伝わったことから航海技術の発展により外洋航海が可能となった。
 1415年、人口110万人の小国ポルトガルは、財宝溢れるジパングや、生糸・絹織物を産出する富めるアジアを見据え、アジアやアラブ商人が占有するスパイス(香辛料)の直接取引を目指し、西回りで独自の大量輸送が可能なモルッカ諸島(別称:香料諸島)への海上航路の開拓に乗り出しスペインと競う大航海時代が始まった。

   

 蛋白源として魚や動物の肉食を食生活の基盤としていたヨーロッパ人にとって、丁子(ちょうじ)やニクズクなどスパイスは蛋白源保存のための最良の防腐剤として毎日の生活に欠かすことが出来なかった。
 現実には、これらスパイスは、アラブ人やインド人および中国人の手を通して買い求めており、然も、地球上で唯一の生産拠点である香料諸島からの入手経路は陸路にしても海路にしてもオスマン帝国を通ることになり、物品税や通行税を課せられ金に匹敵するほど高価な値段で取引されていた。


 

 1451年、スペインは、イタリア人・コロンブスの地球球体説を受け入れ、支援して東回りで航路可開拓に取り組み新大陸を発見し、その後1545年にはポトシ(ペルー)銀山の発見に繋がった。
 1455年、ポルトガルは、スペイン王国の進出に先手を打ち、ローマ教皇からキリスト教布教を大義名分として非キリスト教世界の征服と貿易の独占権を認める教書を獲得した(「胡椒と霊魂」戦略)。
 1517年、マルティン・ルターがローマ・カソリック教会の求める免罪符の購入に異議を唱え、聖書を基本とするプロテスタントが独立し、カソリック教会に危機感が迫った。
 1519年、フェルディナンド・マゼランは西回りでモルッカ諸島に到達するルートの開拓に向かい、南米大陸南端のマゼラン海峡を発見してヨーロッパ人で初めて太平洋を横断した。途中彼自身はフィリピンで命を落としたが、その船団が1522年にスペインに帰り、人類で最初に世界周航に成功した。

  

 1543年、ポルトガル人が乗った倭寇の漂着船により種子島に鉄砲が伝えられ、鉄砲の模作に成功した種子島の鍛冶屋集団の中にいた堺の橘屋又三郎が鉄砲製造技術を堺に持ち帰った。堺では、分業生産方式で大量生産に成功し、以後一大鉄砲生産地として名乗りを上げ日本における戦いの戦術文明の転換を誘導した。
 1549年、ポルトガルの香料諸島への香辛料貿易船に便乗してフランシスコ・ザビエルが鹿児島に渡来し、1550年には京都の天皇への謁見を目指し堺港に上陸した。
 1600年、オランダ船「リーフデ号」が豊後に漂着(4月)し、豊臣政権の五大老の筆頭を務める徳川家康の命で堺港(5月)に曳航され、オランダ人船長に代わりイギリス人航海士・ウィリアム・アダムスが徳川家康の取り調べに応じた。
 オランダとイギリスは、ポルトガルやスペインのようなカトリック教国ではなく、プロテスタント教国としてキリスト教布教を目的にしていないことが評価され、さらにアダムスは航海技術と造船技術が注目されて徳川家康は外交顧問として処遇した。その後、オランダおよびイギリスとの交易の布石となった。
リーフデ号には大砲など武器・火薬を積み込んでおり、徳川家康にとって関ケ原の戦い(10月)に向けて戦備強化に活かした。アダムスは帰化して三浦按針を名乗り、徳川家康の旗本に処遇され250石の所領を与えられた。

  

                                          上「図」の拡大はこちらか

 ヨーロッパ人が来航する16世紀半ば以前は、中華思想に基づき中国を中核とした朝貢冊封体制(朝貢、勘合貿易)のもと東アジア特有の貿易圏を構成し、建前上は一元的な支配・被支配の国際秩序があり、現実的には相互依存の関係秩序が保たれた貿易構造であった。
 対明朝貢貿易の実態は、朝鮮が1年に数回、琉球王国が1~2年に1回、日本が10年に1回の割合で行われていた。この中にあって、琉球王国は「万国の津梁」(国乏しく仲介貿易拠点に徹す)を国策として明と日本の仲介貿易の役割を果たした。
 16世紀後半になると、アジアの海域は香料取引を巡る東南アジア貿易と、中国産生糸・絹織物の輸入国・日本を巡る東アジア貿易の二つの貿易圏から構成され、この二つの貿易圏は日本の銀を軸として密接につながっていた。
 この香料と銀を軸とするアジア内貿易ルートを開拓したのはポルトガル人であったが、キリスト教布教を目的とするカトリック教派は徳川幕府の禁教令により入港禁止(1624年スペイン、1639年ポルトガル)となり、実質的には、オランダがこれまで琉球王国やポルトガルが担っていた日本と中国の仲介貿易権を独占的に引き継いだ。
 1604年、生糸の輸入に関し外国商人が価格決定の主導権を有して利益を独占していたため、これを抑える必要に迫れ、幕府は京都・堺・長崎の特定商人に糸割符仲間をつくらせた。糸割符仲間には輸入生糸の価格決定と一括購入を許し、それを個々の商人に分配させた。
 堺のこの糸割符貿易には、薬種、香料、反物等の唐物取引が付随しており、堺商人は有利な立場にあった。

 <引用文献>
     1.小葉田 淳編集代表1976『堺市史 続編第六巻』堺市役所
     2.小葉田 淳編集代表1971『堺市史 続編第一巻』堺市役所
     3.朝尾直弘・榮原永遠男・仁木 宏・小路田泰直1999『堺の歴史-都市自治の源流』角川書店
     4.堺市立埋蔵文化センター2002『四ツ池遺跡-弥生時代編』堺市教育委員会
     5.角山 榮2000「堺-海の都市文明』PHP研究所
     6.桃木至明・角山 榮監修2009『アジアの海がはぐくむ堺-中近世の港町ネットワークを掘り起こす』堺市市長公室国際部
     7.吉田 豊2009「近世初頭の貿易商人」『近世初頭の海外貿易と陶磁器』関西近世考古学研究会
     8.堺市ホームページ 観光・歴史・文化 http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/index.html
     9.以下ホームページ
        堺市博物館、みはら歴史博物館、さかい利晶の杜、堺市立文化館、堺伝統産業会館、堺自転車博物館

 

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世界から「堺」へ 日本へ! 3.堺の誇り「伝統産業」

2017-07-22 23:53:28 | 歴史

世界から「堺」へ 日本へ!  3.堺の誇り「伝統産業」

< 関連情報 >
  世界と日本が出会うまち・堺 2017」プロジェクト こちらから 
  
主 催 堺市(主管:堺市博物館)/大阪大学(主管:大阪大学歴史教育研究会)
  後 援 大阪府教育委員会 【協 力】堺ユネスコ協会/同プロジェクト研究会
 

                             世界から「堺」へ 日本へ!
                                  1.その出会いと歴史年表 はこちらから
                                  2.大航海時代とアジア貿易圏の交易メカニズム はこちらから

 井原西鶴の言葉〔井原西鶴 元禄元年(1688)浮世草紙『日本永代蔵』〕を借りれば、「堺は浮ついた商いをせず、暮らしぶりは質素で世間づきあいも上手だが、一獲千金の気概に欠けて老成した印象を与える」と表現されるほどに、かつての商人の町は表向きの華々しさには欠けるきらいはあったが、鉄砲鍛冶の流れをくむ打ち刃物のほか食品加工、染色などに分業体制がとられ専門性の高い職人の町として息づいていた。
 明治20年(1887)の産業状態(三浦周行監修1930初版『堺市史本編第⒊第3巻』942頁堺市役所)で見ると、清酒が売上高の一位を占め、醤油、酢と併せると発酵製品の生産が多く堺のまち衆の進取の気概が感ぜられる。

上「表」の拡大はこちらから
 

  “まち”の成長や社会環境の変化は、そこに住むものの営みに影響を与え、「業」の盛衰を招く時代の変遷の中で、堺の専門職は堺の風土を反映し「誇り」と頑な「こだわり」によって郷土のアイデンティティーを育んでも来た。

1.堺の「業」の盛衰
1)清酒
 堺の酒造業の始まりは中世以来ともいわれ(1493年『蔭涼軒目録』)、1619年(元和5年)には堺の商人が紀州の回船を雇って江戸へ就航させた菱垣廻船で江戸へ運び、そのほか長崎、松前(北海道)、中国、四国、対馬など全国へ出荷していた。
 当時、堺は京都、大坂、奈良とともに、金剛山からの伏流水を活かした全国的な酒の産地であった。堺の酒造の最盛期は明治時代(1868~)で、大正3年(1914)まで約50年近く、堺の製造業の生産金額の1位を占めていた。
 これらの内、清酒、手織り緞通、菜種絞油、真田紐は時代の進展とともに社会環境と生産条件の変化により衰退の道をたどり実質的な生産活動は堺から消えた。
 清酒は、堺市街地の開発と近代工業の発達につれて地下水の使用が増え、地下の伏流水が枯渇し、水質低下のため清酒生産に必要とする水を六甲の宮水(西宮)を買いに行くことになり、堺の酒造りは衰退の道をたどった。
 当初100軒近くあった酒蔵は、1970年(昭和45年)頃には堺市内から完全に姿を消すことになった。
 平成17年(2005)、河内長野の蔵元を病気のため退いておられた西條裕三氏が健康回復に伴い、堺のまちづくり団体・大小路界隈「夢」倶楽部の面々と開口神社境内にある室町時代からの名泉・「金龍井」井戸を整備され、近世の堺を支えた酒造業の復活に思いを馳せられた。
 特別純米酒「夢衆」の上市を弾みに、平成28年(2016)新酒蔵(堺区甲斐町西)を建造し46年振りに純米吟醸酒「千利休」が発売された。
2)堺緞通
 堺で緞通の製造が始まったのは江戸時代の天保2年(1831年)、真田紐を製造していた糸物商・藤本庄左衛が中国緞通、鍋島緞通(佐賀県)を参考にしてであった。織機には世界でも類を見ない巨大な開孔板綜絖(かいこうばんそうこう)と呼ばれる部品を使うなど独自の発展を見せた。
 明治20年代に堺緞通は近郊農村の一大産業となり、「緞通業者は3千人以上、職人は2万人以上」になったが、30年代には、アメリカで高い関税がかけられ、安い海外製が出回るなどして、手織緞通は急速に廃れ、その後は機械化が進み安いカーペットなどに置き替わっていった。
 存続の危機の中、中区在住の辻林白峰氏(本名:辻林峯太郎)が家業として緞通製造に関わり文様を絵画的に表現する技法を磨き上げ、その生涯を緞通にささげられた。
 現在は、「堺市手織緞通技術保存協会」(中区東山)が中心となって有志により継続され、平成6年より大阪刑務所にて職業訓練として手織り緞通が造られ、優れた作品など受注生産を行っている。
 昭和61年(1986)2月5日に「大阪府指定無形民俗文化財」の指定を受けた。
3)菜種絞油
 大蔵永常『清油録』〔1836(天保6)年〕の総論に次の記述がある。
 「神功皇后の御時 摂津国のほとり遠里小野(おりおの)村にて榛(はしばみ)の実の油を製し住吉の神前の燈明そのほか神事に用ふる所の油をみなこの地より納め奉れり」
 「摂津国遠里小野村 若野氏 菜種子油をしぼり出せしより 皆これにならひて油菜を作る事を覚え 油も精液多く油汁の潔き事是に勝るものなければ他の油は次第に少くなり かつ 菜種子の油のみ多くなれり」
 「大阪は諸国へ通路便宜なるに随ひ 元和(1615~1623)の頃より遠里小野其外油うりのともがら多くこの地に引うつりしと見え その後搾具の製作まで追々細密に工夫を用ひたれば 明暦(1655~1658)の頃より古風の製具絶しと見えたり」
 今も、「花田口」、「北花田」および「南花田」の地名が残っている。
 菜種油は、灯明用としては荏胡麻油に比べて優れたていたため、豊臣秀吉は天正11(1583)年大坂城の築城とともに大山崎に産する荏胡麻油を河内・和泉に産する菜種油に切り替え、大山崎の油商人も新興の大坂に移り住んだ。
 明治維新(1868年)後、文明化の流れの中、西欧から電灯技術が導入がされ、大正末期(1926年)にほぼ全家庭に普及するに従い、菜種油の灯明用としての需要は激減し、神社仏閣など特定用途に限られた。堺市内の製油メーカーも淘汰され、食用油など加工製品の開発に注力し堺から菜種絞油の生産はなくなった。
2.堺の「伝統産業」
 堺市では卓越した技能を有している人を「堺市ものづくりマイスター」として認定し、その技術に対する社会的な認知度を向上させるとともに、その優れた技能を継承して発展させるため、堺市ものづくりマイスター制度を実施している。
 「堺市ものづくりマイスター制度」
   http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/dentosangyo/meister/meister.html 
 マイスター認定の対象業種は、刃物(鍛冶4人・研ぎ10人・鋏1人)・注染1人・線香3人・手すき昆布1人・手描き鯉幟1人・和菓子2人で、これに鉄砲づくりに由来する自転車と「大阪府無形民俗文化財」に指定されている手織り緞通を含めて堺の伝統産業と位置付けている。

      

    堺打ち刃物             注染和晒                       線香                                手すき加工昆布

詳細については各画像の下の表示よりホームページにアクセスしてご覧ください。

     

   手描き鯉幟                  和菓子                             自転車                        緞通

 これらの内、打ち刃物のマイスター15人は、いずれも経済産業大臣認定の「日本伝統工芸士」(*)で、注染、線香、手描き鯉幟の計5人は「大阪府伝統工芸士」認定者である。

   

 特に、日本伝統工芸士が揃った堺の打ち刃物は料理を業とする専門家の間で高く評価され、「堺」のアイデンティティーとして広く世界で受け入れられている。

 伝統産業は、本質的に人間に依存するものであって、「ヒト」そのものに由来する部分が大きく、無形の文化遺産でもあり、常に後継者の問題が付随している。つまり、放置しておけば時間とともに失われてゆく文化である。
 「堺市手織緞通技術保存協会」の事例が示すように、「市民」あるいは、「地域社会」の関わりがアイデンティティーの存続に投影されるので、その継承に当たっては地域社会における組織的な支援、すなわち市民意識の向上が鍵となる。
 歴史の息づく堺のまちで、時代を超えて一つの世代から次の世代へ地域の文化と伝統を受け継ぐモデルの実践が、伝統のまち「堺」のユネスコ協会に期待される使命の一つでもある。


<参考資料>
           1. 堺伝統産業館 配架資料 ホームページ
                  打ち刃物、和晒・注染、線香、手すき加工昆布、手描き鯉幟、自転車、手織り緞通
           2.(公社)堺市産業振興センター編集・発行 2008『堺の伝統産業』
           3.三浦周行監修1930初版『堺市史本編第3第3巻』堺市役所
           4.島田孝克編集委員長2000『東京油問屋史』幸書房
           5.調査協力:堺市・商工労働部ものづくり支援課、(公財)堺市産業振興センター販路開拓課

 

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「金剛俳句」 第5集(平成二十九年一月~ )

2017-07-22 23:53:00 | 不易流行

                「金剛俳句の趣旨」および自作「入門編」は、こちらから
                「金剛俳句」自作編 第2集 「小川誠二郎師の遺志を継ぐ」は、こちらから
                「金剛俳句」自作編 第3集 「新たな自己発見に向けて」は、こちらから
                「金剛俳句」自作編 第4集 「作句の境地に魅かれて」は、こちらから

前田秀一  HP「堺から日本へ!世界へ!」主宰

 

金剛俳句 第三十八回 兼題:ビール、梅雨  (平成二十九年七月十六日)

 
書に花に故事を習ひて夏点前
選句:〇〇〇〇〇

  
ビール杯目線に至福掲げ合ふ       心地よし無想に任せ昼寝茣蓙
選句:◎〇〇                 選句:〇〇

金剛俳句 第三十七回 兼題:牡丹、母の日 (平成二十九年六月十八日)

 
初牡丹妻の丹精弾けをリ
選句:◎〇〇

 

肌に風くすぐり抜けて夏衣         日傘人一視黙然釣り三昧
    選句:◎〇〇〇                    選句:◎〇〇

 

金剛俳句 第三十六回 兼題:落花、蝶  (平成二十九年五月十九日)

 
せせらぎを寄せて離れて花筏
選句:◎〇〇〇〇

  
遅咲きも早散る桜雨無情          林間に木漏れ日優し春の草
   選句:〇〇                       選句:〇

 

金剛俳句 第三十五回 兼題:菜の花  (平成二十九年四月二十五日)


 跳ね踊る十五の顔やサクラサク
選句:◎◎〇〇〇

<自句自解>
 「大先輩!おめでとう!」 思いもよらない孫からの「大先輩」呼ばわり、念願かなった入試合格の嬉しさがドォーンと伝わった感動の瞬間でした!

  
   嬰の手の菜の花摘みて髪飾り         柳芽の薄ら緑に風薫る
       選句:〇                           選句:〇

 

金剛俳句 第三十四回 兼題:冴え返る  (平成二十九年三月二十八日)
 


上弦の月冴え返る一人道
選句:〇〇〇〇〇

<自句自解>
 昨年の三月末頃は、既に桜も咲きかかっていたが、今年は永めの三寒四温、歳のせいか身に応えるのもひとしお・・・。
 一人歩く夜道、寒気の中で神々しく思えるほどに冴え返っている上弦の月、私にとって、「上弦の月」とは“すずめ踊り”にゆかりある伊達政宗でもあり、思わず目が留まりました。 

  
コップ酒両手囲みて春の雪      願掛けの手洗い龍や春の水
       選句:〇〇〇             選句:〇〇

 

金剛俳句 第三十三回 兼題:年末 新年  (平成二十九年一月三十日)


 
都路を駆くる紅顔冬日満つ
選句:〇〇〇〇〇

< 自句自解 >
 我が家の庭(叱られるかな?)、大泉緑地には、周回3kmの林間道路があり、堺市の公認駅伝、市民マラソンコースになっています。
 毎年、季節になると大阪府下の高校生が駅伝の練習に来ます。あどけない中にも、大人びた真剣な顔をして練習に取り組んでいます。
 今日は彼らの晴れ舞台、いつもとは違い晴れ晴れと輝いた顔に引きつけられ、時の過ぎゆくのを忘れさせてくれました。

   
行きずりに過ぎて会釈の冬帽子                    孫たちも相場を語るお年玉
選句:◎〇〇〇〇                                    選句:◎

< 自句自解 >
 日頃、帽子をかぶりつけない私ですが、ことのほか寒さの厳しさを感じるこの頃、耳覆い付の冬帽子をかぶるようになりました。
 帽子をかぶれば容貌が一変する私、道行く知人は気づかずに過ぎゆき、私の会釈に過ぎ行きて思わず返し会釈、「あらぁ~・・・」

 

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キリシタン受容の構図-『茶会記』に見る茶湯政道

2017-07-22 23:52:03 | 茶の湯

十六世紀 茶の湯に見るキリシタン受容の構図

前田秀一

「堺から日本へ、世界へ!」主宰

<本論要旨>は こちらから


1.『天王寺屋會記』に見る茶湯政道

 天文17年12月より、堺の豪商、天王寺屋・津田宗達( ~1591年)は、茶会の日付、場所、亭主、参会者、茶事の様式など茶会に客を招いた場合を『客来茶湯留』(「自会記」)として、また客として招かれた場合を『他所茶湯留』(「他会記」)として日記をつけ始めた。この茶会日記は、宗達〔天文17年(1548)~永禄9年(1566))の後、宗及〔永禄8年(1565)~天正13年(1585)〕および宗凡〔天正18年(1590)~元和2年(1616)〕と津田家三代にわたって引き継がれていった5〕(p443)。奇しくも、『天王寺屋會記』の始まりは、フランシスコ・ザビエルによる異文化(キリスト教)の到来と時を同じくした。
 津田家は、三好一族と茶の湯をとおして親交があり、織田信長(1534~1582)および豊臣秀吉(1537~1598)ら時の為政者の茶頭を務めるなど懇意だったこともあり、これら政権の茶の湯(特に道具類)に関する記録に詳しく、また関係した諸事件についても明確に記し自会記・他会記がそろっているなど史料的価値が高い1,5,6)。特に、武将に焦点を当てた場合、茶会に記された人名は世相を反映し三好政権時代(1549~1569年)と織田・豊臣政権時代(1573~1587年)に大別される。

1)三好政権下、『天王寺屋會記』に見る武将の記録(表‐1)7~9)

 天文18(1549)年2月11日朝、三好本宗家の縁につながる三好政長(宗三、1508~1549)が「宗三御会」に武野紹鴎(1502~1555)、江州源六、津田宗達を招待したのが『天王寺屋會記』(他会記)おける武将の初見で、その後、亭主が津田宗達、武野紹鴎と変わり三日連続して三好政長が参加した茶会が持たれた。しかし、これを最後に、以後三好政長の名前を見ることができない。
 その後は、1年9ヶ月後の天文20年(1551)11月17日の朝会に津田宗達の招きで河内の大名・畠山氏一族畠山式部将とともに三好豊前守(實休:1527~1562))とその家臣が登場している。引き続き、武将としては三好實休および弟・安宅冬康(1528~1564年)の名前が散見されるが、回を重ねて登場するのは、弘治4年(永禄元年:1558)10月3日、津田宗達が、堺とともに拠点港と位置付けられていた尼崎に滞在する三好長慶(1522~1564)、三好實休および安宅冬康(1528~1564))の兄弟三人を訪ねてからの事であった。
 三好長政が津田宗達らと茶会をもってから間もなくの天文18年(1549)6月24日、江口の戦い(現大阪市東淀川区)で三好長慶(1522~1564)は主筋の管領・細川晴元(1514~1563)に逆らってまで、父・三好元長(1501~1532)を一向一揆で追い込んで堺の顕本寺で自刃に至らせた仇敵・三好政長を討伐した。三好長慶の攻勢を恐れた細川晴元(1514~1563)は第14代将軍・足利義輝(在位:1546~1565)一家を伴って京から近江(坂本⇒堅田⇒朽木)へ退去し細川政権は崩壊した。
 三好長慶は、京都を中心とした求心的な支配構造にこだわることなく、政権の拠点を摂津・芥川山城(1553~1560年)において京都と兵庫津を繋ぐ西国街道、京都と堺を繋ぐ三島路および熊野街道など交通大動脈の支配に重点をおき、細川氏綱(1514~1564年)を傀儡とし管領・細川氏を前提としない実質的な三好政権を打ち建てた。
 弘治2年(1556)6月15日、三好長慶兄弟は父・三好元長が自刃した堺の法華宗・顕本寺で父・三好元長の二十五回忌法要を営み千部教読経を挙げた。その後、弘治3年(1557年)、大林宗套(1480~1568)に帰依していた三好長慶は、父・三好元長の菩提弔いを発願し堺南庄舳松(現堺区協和町)にあった小さな坊院・南宗庵を中之町へ移転し、東西八丁南北三十丁にわたり壮大に造営し大林宗套を開基として南宗寺を建立した。当時の堺の茶人たちは、大林宗套や笑嶺宗訢(1490~1568年)など歴代の住特に帰依して参禅、得度した。
 三好長慶が、自ら拠点とする芥川(芥川山城)ではなく、また出自とする阿波・勝瑞でもなく堺に父・三好元長の菩提寺を選定したのは、茶の湯を活かして堺衆(堺商人)を西国大名に対する外交政策の担い手と位置づけ、さらに堺を三好一族や重臣の宗教的、精神的中核となる宗廟の地とする狙いからであった10)(p264)。
 弘治3年(1557)9月15日昼、宗久(今井)會の記録に松永久秀(1510~1577年)の名前があり、この時点で松永久秀が堺代官を務めた。永禄3年(1560)2月25日朝には、津田宗達を多聞城(築城:1560年)に招いて茶会でもてなしており、松永久秀はその間、堺の代官を務めていたと考えられる。
 三好長慶は歌道に親しみ、連歌もよくしたが、茶の湯を通して堺衆と親しくすることはまれで、茶事は弟の三好實休と安宅冬康に任せていた9)(p1321)。
 三好實休は、永禄5年(1562)3月5日紀伊・河内の守護大名・畠山高政との久米田の戦いで戦死するが、永禄7年(1564)3月5日朝、津田宗達が三回忌に合わせて宗閑、了雲、道巴とともに實休を偲ぶ茶会を開き堺の茶人との親密さがうかがえる。
 一方、弘治3年(1557)9月18日昼、織田信長(1534~1582年)方の使者が津田宗達の茶会席に現れ、清州城主となって堺の繁栄を視野に入れはじめた織田信長の台頭が予見された。
 永禄7年(1564)7月4日、三好長慶が飯盛山城で病死すると、三好政権は三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と松永弾正久秀に引き継がれたが内紛によった安定せず衰退の一途をたどり茶会記からも名前が消えていった。
 永禄11年(1568)9月、将軍家嫡流の足利義昭(在位:1568~1573年)が織田信長に奉載されて上洛し、10月に第15代征夷大将軍に補せられた。織田信長の功を賞して摂津、和泉、近江など諸国の中で領地を授けようと勧めたが、信長はこれらを辞退し、時の軍政・三好三人衆が治めていた堺および近江草津に代官を置くことを望み許された。
 信長の狙いは、海外貿易拠点としての堺および東海道と中山道が交わり湖上交通の要である近江草津などの交易拠点を手中にすることにあった。織田信長は、軍資として堺に二万貫、石山本願寺に5千貫の矢銭を課した。本願寺・顕如(1543~1592)はその命に応じたが、堺の会合衆は三好三人衆の軍政を頼りこれを拒んだ11)(p211~212)。
 永禄12年(1569)1月6日、織田信長が岐阜に帰った留守中、三好三人衆が京都・本國寺に将軍・足利義昭を襲ったが、義昭方の三好義継(1549~1573)らが三好三人衆を七条桂河邊で破った。本拠地・阿波国から三好三人衆援軍が堺に集まり出陣したことにより騒ぎが大きくなり、信長に攻撃されるという風説が流れ、堺の会合衆は将来とも堺に牢人衆を入れて反抗しないことを誓い、且つ二万貫の矢銭を納めて信長に陳謝して許された11)(p214)。

2)織田・豊臣政権下、『天王寺屋會記』に見る武将の記(表‐2)7~9,12~15)

 織田信長は敢えてすぐに兵を動かそうとはしなかったのは、能登屋や臙脂屋(べにや)など反目する硬派の会合衆の一方において、これに応じようとした軟派の頭目・今井宗久(1520~1593年)が密かに名物・松島の壺(葉茶壺)と舅・紹鴎所持の茄子茶入れを献じており、その動きを洞察していたのではとの考え方がある。今井宗久が信長の知遇を得たことは、宗久をとおして津田宗及および千利休が紹介され信長に茶の湯を政治的に利用させる契機ともなった11)(p488)。
 「元亀」(元亀4年7月)から「天正」(天正元年7月)へ改元(1573年)し体制のめどが立つと、織田信長は上洛時の宿・妙覚寺(法華宗)と相国寺(臨済宗)などに堺の茶人を招いた。
 天正元年11月23日、妙覚寺の会には、塩屋宗悦、松江隆仙、津田宗及が招かれ、三の膳まで用意され、織田信長は正装で義父・斎藤道三(1494~1556)と縁のある京の町人・不住庵梅雪(村田珠光流:1541~1582))を茶頭にたて手厚くもてなした。
 翌日、天正元年11月24日、相国寺の会には堺の代官・松井友閑(生没不詳)、今井宗久(1520~1593)、千宗易、山上宗二が招かれ、千宗易が濃い茶を点て織田信長に呈茶し、その後、今井宗久が薄茶を点て信長に献上し、信長も一段とご機嫌だったと記されている。
 年明けて天正2年3月24日には、堺衆(堺の商人)10名を相国寺に招いた。『天王寺屋會記』紙背文書によれば、客人として紅屋宗陽、塩屋宗悦、今井宗久、茜屋宗左、山上宗二、松江隆仙、高三隆世、千宗易、油屋常琢、津田宗及の10名の名があり15)、今井宗久、山上宗二、千宗易および津田宗及など当時名声を高めていた茶人4名が含まれていた。お茶の後、今井宗久、千宗易および津田宗及には書院にて名物の千鳥の香炉、ひしの盆、香合が披露された。津田宗及が到着する前に、千宗易と茜屋宗左にはお茶がふるまわれ特別に扱われた。
 天正2年3月26日には、織田信長は臣下の武士とともに堺衆を伴って松永久秀が築いた多聞山城(奈良)に行き、正倉院から運び込ませていた御物の蘭奢待を切り取った。天正2年4月3日、俄かに、相国寺に堺衆を招き、梅雪の手前でもてなし、茶会が終わってから、3月26日に切り取った蘭奢待を扇子にのせてその銘香を楽しみ、宗易と宗及にも分け与えた。
 織田信長は、茶の湯を初めに不住庵梅雪に学んだが、その後、今井宗久、津田宗及および千宗易らを茶頭に取りたて盛大に茶会を開催した9)(p229)。
 先に今井宗久から献上された天下の名器・松島の壺(葉茶壺)や紹鴎所持の茄子茶入れ、さらには、松永久秀から献上された名茶器・九十九髪茄子など茶道具に開眼した信長は、実弟・丹羽長秀(1536~1585)や腹心の家臣・松井有閑に命じて銘品狩りといわれる本格的な茶道具の収集を始めた12)(p97、p103)。これらの名器は一個一城の知行同等と価値づけられ、武功のあった家臣にこれを下賜、また、茶湯の催しを許すなど政治の方便としても用いた。織田信長は、堺の茶匠の指導のもと茶趣味に没頭し、茶湯は単なる遊芸や慰みとは異なり政道(「茶湯政道」)として武将の間に茶湯が盛行する要因となった9)(p229)。
 表-2から、茶湯の会席を許された武将は、荒木村重(1535~1586)が一番早く〔天正5年(1577)4月13日〕、次いで、ロドリゲスにこの道で日本における第一人者と称されたキリシタン大名・高山右近〔天正5年(1577)12月6日〕が許されている。その後は、天正6年(1578)1月11日に明智光秀(1528~1582)、天正6年(1578)10月15日に羽柴筑前守秀吉、天正8年(1580)1月14日に牧村長兵衛(1546~1593)の名前が見える。
 天正5年(1577)12月6日朝、荒木村重は千宗易と津田宗及を客人として茶会を開いていた。千宗易はあつきくさりを持参して荒木村重に贈り、床の「遠浦帰帆の繪」の掛け方を教えた。津田宗及が薄茶を点てるなど荒木村重は千宗易と津田宗及から教えを受けた。
 同じ日の晩(天正5年12月6日晩)、高山右近が宗易と宗及を客人として茶会を開いた。帰りがけに荒木村重から贈られた鴈一つ、たぬき一つおよび炭十荷を千宗易と津田宗及に手土産とした。高山右近は、荒木村重に茶の湯の指南を受け、千宗易と津田宗及を紹介された。
 その後、荒木村重は天正6年(1578)10月12日朝、津田宗及と叔父の津田道叱を招き兵庫の壺の口切でもてなした。翌13日朝には宗及一人を客人として定家之色紙でもてなした。これは、荒木村重が将軍・足利義昭を支援する毛利軍と石山本願寺との戦いで織田軍の形勢が不利となり、摂津国の周囲を敵に囲まれたことから織田政権の命運を見限り、謀反を起こすことを決めた天正6年10月21日12)(p240)の直前、秘蔵の名物の後事を津田宗及とその叔父・津田道叱に託すための特別の茶会であったとの見方がある16)。
 荒木村重の家臣であった高山右近は、自身の妹や息子を人質として差し出してまで荒木村重の謀反を翻意させようと努力したが失敗した。当時キリスト教の布教に理解を示していた織田信長と主君・荒木村重の間で板挟みにあって悩み、尊敬するイエズス会会員オルガンチノ神父に助言を求めた。神父は、織田信長の元に降りるのが正義であると助言を与え、高山右近は、高槻城主の地位を辞し、家族を捨てて織田信長の元に行き、畿内の宣教師とキリシタンの身分を救う道を選んだ20)(p38)。
 戦略拠点・摂津の統一支配者として信じていた荒木村重の謀反にあわてていた織田信長は、政治的に重要拠点である高槻城主・高山右近の決断は、荒木村重の敗北を促す効果があったと高く評価して高山右近に再び高槻城を安堵し、摂津国の半領を与え、キリシタン宗門を保護すると約束した20)(p44)。
 後に(天正12年)、高山右近の熱心な勧めでキリシタンとなる牧村長兵衛は、天正7年(1579)12月8日晩、吉田久二郎の会で津田宗及、本能寺の僧・園乗坊、佐久甚九郎および山上宗二を招いて釜開きを行った。翌天正8年(1580)1月14日朝、津田宗及は織田信長へお礼に参上し、お茶のおもてなしを受けた同じ日の夜、安土にて佐久甚九郎と共に牧村長兵衛の会に招かれ、後に流行することになった「ユカミ(ゆがみ)茶碗」を用いてもてなされた。
 天正10年6月2日、本能寺の変で織田信長が明智光秀の謀反で倒れると、高山右近は羽柴秀吉の配下に入り山崎の明智光秀討伐の戦いでは先鋒を務め、戦勝後の清州会議でその功を認められた。
 天正10年(1582)10月11日、豊臣秀吉は、大徳寺で織田信長の大葬儀を主宰して天下統一の後継者としての地位を固めると、千宗易を茶頭として取りたてて茶の湯へ傾倒し、織田信長の「茶湯政道」を継承した。自らも大坂城、聚楽第および戦陣に茶席を設けるなど茶の湯を生涯の嗜みとして没頭した。
 高山右近は、豊臣秀吉から引き続き茶湯会席を許され、自らも、かつて鳥居引拙が所持していた名物「侘助かたつき」を所持し侘び茶に傾倒した1)(p72)。
 天正12年(1584)10月15日、豊臣秀吉が膠着状態にあった小牧・長久手の戦いへの協力要請を目的として大坂城内座敷で催した茶会には、堺の代官・松井有閑を筆頭に千宗易、今
井宗及、津田宗及、千紹安、山上宗二、万代屋宗安、住吉屋宗無、重宗甫、今井宗薫、山上道七など堺の茶人で商人と共に、細川幽齋、藤田平右衛門、佐久間忠兵衛、高山右近、芝山源内(監物)、古田左介(織部)、中川瀬兵衛子(清秀)、松井新介(康之)、牧村長兵衛(兵部)など武将も含む29名が招かれた。
 天正13年10月、豊臣秀吉が関白となったのを記念して禁中茶会が催され、正親町天皇に茶を献上した関白秀吉の後見役を務めた際に、千宗易は永禄年間(1558~1570年)に南宗寺の大林宗套から与えられていた「利休」居士号を正親町天皇からの刺賜として使用を始め、名実ともに天下一の宗匠となった。

 

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濃茶とミサ 茶湯者の覚悟「濃茶呑ヤウ」 考察

2017-07-22 23:51:22 | 茶の湯

『山上宗二記』 茶湯者の覚悟十體 「濃茶呑ヤウ」 その一考察

前 田 秀 一

「堺から日本へ!世界へ!」主宰

はじめに

 「日本の茶の湯と、私が長年親しんできたカトリックのミサが大変よく似ているという感じは、茶会を体験した当初からずっと頭にあった。イギリスのアフタヌーン・ティーとミサが似ているなどとは思ったこともなかったのに、日本の茶の湯とミサの間には一見して明らかな共通性が確かに感じられた。」
 ロンドン生まれでオックスフォード大学卒業後来日し、1960年よりカトリック司祭として上智大学および東京純心大学教授であったピーター・ミルワード師(現在上智大学名誉教授)の言葉である。特に、茶道で点てられた濃茶(スイ茶)の一つの椀が会席者の間で飲みまわされる作法が、カトリックのミサで一つの聖杯にそそがれた赤ぶどう酒をイエスの血として飲みまわす作法との共通性を挙げている点が注目される。
 一方、茶道は禅の思想を規範とするが宗教ではない。点前と称する作法は極めて厳格かつ複雑で、これは一種の儀式と言える。山上宗二は、「茶湯者覚悟十體」の「又十體(追加の十体)」の一つとして「濃茶呑ヤウ(飲み様)」を挙げている。


 ピーター・ミルワード師が指摘されたミサにおけるぶどう酒と茶の湯における濃茶の飲みまわしの共通性に関しては確たる論拠を見出せているわけではなく、相互の慣習の中に見られる形式上の相似性から類推しているように思われる。茶の湯の大成の背景を追って『山上宗二記』に見る茶湯者覚悟「濃茶呑ヤウ」について考察してみる。

 1.ジョアン・ロドリーゲスが見た「濃茶」運び手前

 キリスト教宣教師が、茶の湯の見聞録をイエズス会に報告したのは1565年10月25日付ルイス・デ・アルメイダ発信書簡が初見で、厳冬期の長旅による病気療養で25日間世話になった日比屋了珪の茶室における体験についてであった。永禄12年(1569)3月、ルイス・フロイスは茶室を清浄で地上の安らぎを与える場であると認め、茶室は在地のキリスト教信者を集めミサ聖祭を捧げるに足る神聖な場所であると報告した。

フランシスコ・ザビエル 堺港上陸(1550年)顕彰碑 

 ジョアン・ロドリーゲスは、1622年10月31日付マカオ発総長宛書簡で『日本教会史』を著したことに言及し、「私は日本に45年間滞在して、今では最も古参の者となった。・・・私は関白殿の迫害〔天正15年(1587)伴天連追放令〕前後の日本のことについて、今日までのところ誰よりもよく知っており、日本の言語と歴史に精通し、宗教に関しても特に研究したので何人にもまして知っているからである。日本国のことと習慣については、すでに大部分を正確に記述した。・・・特に一言しておきたいことは、私の目的は事実を明らかにすることであって、文章を整えることではない。文章のことは、その名声とともに、他人のために残しておく。」と書いた。
 茶の湯については正確に理解し、その中で第32章から第35章の4章にわたって詳細に書きあらわし、茶の湯の記録書としても高く評価されている。

 数寄の家(茶室)で特別な客人に濃茶でもてなす作法において、その飲み様について以下のように記している。
 「客は誰から飲み始めるか、たがいに会釈し合って、最初に主賓からはじめ、それを三口飲んでから第二の人に渡す。こうして皆が飲み終わるまで、つぎつぎに渡って行く。」
 客に伺いを立てたうえで要望に応えて濃い茶を点て、参加者の内でも主賓に敬意を表して濃茶を飲みまわすと記した記述は、客をもてなす亭主の心を見事に観察した表現である。この記録は、アルメイダやフロイス、なかんずくアルメイダの報告を引用したアレサンドロ・ヴァリニャァーノの形式的な表現を超えて現実を踏みこんで観察したもので、千利休が大成した運び手前の茶の湯の心を十分に理解した記録として貴重である。

 2.『茶会記』における「御茶(茶)-薄茶」二服もてなしの事例

 ジョアン・ロドリゲスが著作『日本教会史』に記録した四種の茶の種類の記録は、天寺屋宗達起筆による『天王寺屋會記』の天文年間後期(1548~1553)に見ることができる。

 もてなしの手順として、三例(天文17年12月23日、天文18年2月11日、12日)を除けば、先ず、上質の茶葉でもてなし、その後、より品質の低い茶葉で薄茶をもてなしていることから、最初にもてなされた御茶または茶は濃茶であると思われる。
 天文年間以降、『天王寺屋會記』には茶の種類および濃茶の記録は見られなくなったが、天文2年(1533)奈良の塗師・松屋久政が起筆した『松屋會記』および博多の豪商・神屋宗湛が天正14年(1568)11月九州島津征討を計画する秀吉軍の兵站物資調達参画を目的として天王寺屋宗及の招きで上洛したのを機会に起筆した『宗湛日記』では、天正14年から天正18年にわたってコイ茶(スイ茶)の記録がある。
 茶の飲みまわしについて以下の事例がある。

  天正14年9月28日朝(『松屋會記』)   亭主・山上宗二  客・豊臣秀長、松屋久政 

   ・・・茶は極ム、如何ニモ如何ニモタフタフトスクヰ、四ツ五ツ入、湯一柄杓、スイ茶也、初口(松屋)久政、次(豊臣秀長)也、(山上)宗二取テ参ル、又圍ヘ返シ、呑間ニ壺キンシテ出サル、見ル間ニ何モ水指マテ入ル・・・

  天正17年9月24日朝(『松屋會記』)   亭主・豊臣秀長  

   ・・・スイ茶御手前ニ而御茶被下ル・・・鬮(くじ)取ニ而御座敷ヘ参ル・・・
             一クシ 宗立 宗方 二人          二クシ 宗有 久政 二人
              三クシ 道可 紹斗 二人          四クシ 壽閑 関才次郎 二人
              五クシ 等旧 有俊 久好 三人

 濃茶には、最上級の茶葉を用い、飲みまわしをするが、参会者の人数が多い場合には、その順番をくじ引きで決めることもあった。

 3.茶の湯大成の背景

 「西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶に於ける其の貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。・・・」
 これは、松尾芭蕉が貞享4年(1687)10月から翌年4月にかけて,伊良湖崎,伊勢,伊賀上野,大和,吉野,須磨,明石の旅をつづった芭蕉第3番目の紀行『笈の小文』の冒頭に書かれた有名な風雅論の一節である。和歌の道で西行のしたこと、連歌の道で宗祇のしたこと、絵画の道で雪舟のしたこと、茶道で利休のしたこと、それぞれの携わった道は別々だが、その人々の芸道の根底を貫いているものは同一である。
 中世から近世に至るそれぞれの時代に一世を風靡した芸道を列挙して それを貫くものはひとつ、すなわち「風雅の道」、これは不易(いつまでも変わらない文化)であると主張したもので、それぞれの時代の文化の背景を言い得て妙である。
 応仁・文明の乱(1467~1477年)後、古代的な美意識が決定的に崩壊し、新たに中世的な美・幽玄への美意識が深まり、「歌」主道論は能楽論や連歌論へと変わった。連歌では高山宗砌、蜷川智蘊、飯尾宗祇などが脚光を浴び、禅竹、心敬など陽の当らないところにいた実力派たちから「侘び」や「冷え」の美が高く評価されるようになった。
 文明元年(1469)、堺の港に遣明船が入港して以来、防衛とともに、商業資産を守るために天文期以降に周濠(環濠)が整備され、堺は世界的な商業都市として発展していった。

 住吉大社の「開口庄官」などを起源として南北庄の荘園領主が変わる中で、津田氏や今井氏など後に茶人として活躍する有力商人たちが台頭し会合を重ねて利害の異なる諸集団を一つの都市としてまとめる調停機能を発揮し、外交、自衛組織として室町幕府や守護と関わりを持った。
 十六世紀には幕府や細川氏の衰退により世界的な商業都市として栄えた堺は安定した後ろ盾を失うが、管領・細川氏を傀儡とした政権樹立を目指していた阿波の豪族・三好氏が海外貿易の拠点として堺の流通機能に注目し堺の豪商との関係構築をはじめ堺南北庄の代官とは別に堺奉行を設置した。豪商自らも三好政権の中で役割を果たしていくことが求められ、堺奉行にも豪商と交流するために文化的教養が求められた。
 財政が破たんした室町幕府は、将軍家の所有していた美術品を売却したり、代物弁済するようになっていった。経済力をつけていた堺の豪商はじめ有力者たちは、「東山御物」の唐物絵巻や美術工芸品、茶道具を競って入手した。
 室町時代の文化の特徴は、集団芸能の発達にあり、連歌はその代表例である。複数の人が一ヶ所に集まって、和歌の上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を分けて交互に詠みつづけて一つの作品を仕上げて行く連作形式の詩である。

 
 杭全神社(大阪市平野区) 連歌所 および 連歌の会(杭全神社御由緒より)

 神津朝夫氏は、『山上宗二記』を精査、解読され通説に対して異論を提唱されている。その論の一端を引用して以下に連歌に関する記述を要訳した。
 武野紹鴎は三条西実隆に連歌の指導を受け、日本の歌論『詠歌大概』から美意識を学び、それを茶の湯に応用して侘び茶を方向付けた。それは、伝統的に評価の確立している茶道具をつかい、そこに新たな趣向を生み出す道具組を編み出すというものであった。
 昔から茶の湯の名人とされる人は、道具一つさえあれば侘び茶を点てることができるといわれている。若いころは格調が高くあっても、ゆく先々には連歌師・心敬が詠んでいるように「枯れて寒々とした」という境地を得るようになりたいものだ、と武野紹鴎は日頃から弟子の辻玄哉に云っていた。
 連歌の一座と同じように、紹鴎は茶の湯の座は、そこに集まる人々が、利害共同者として商売の話や諸大名の動向に関する情報交換など世間雑談を行う場であると口伝したが、宗易(利休)はそれを嫌って、「常」の茶会でも一生にただ一度の会のように亭主を敬い、連歌師・牡丹花肖柏が狂歌に歌っているように世間雑談のないものであることを求めた。

          

天目台 唐物茶碗       焼物茶碗(畳に直接置く)

     
 武野紹鴎は、連歌の世界から学んだ伝統的な美意識を活かして唐物道具を集め、立派な座敷で道具を見せる茶の湯を目指した。
 千宗易は、武野紹鴎の教えを辻玄哉を通して伝え聞いたが、武野紹鴎と違って連歌にも深入りすることなく、伝統的な茶道具を揃えることはしなかった。むしろ運び手前や作法を見せる侘び数寄を大事とし、茶席の振る舞いも一生にただ一度の会(「一期一会」)のように亭主と客人が相互に敬い合い、緊張感を持った静かな一座(「和敬清寂」)とすることを目指した。

 4.「濃茶呑ヤウ」 考察

 『山上宗二記』に「茶湯者の覚悟」(茶の湯を嗜む者の心得)が記されており、その中に本論に関わる二条に注目した。
 「薄茶ヲ建ルカ専一也、是ヲ眞ノ茶ト云、世間ニ眞ノ茶ヲ濃茶ト云ハ非也、濃茶ノ建様ハ手前ニモ身モカハズ、茶ノカタマラヌヤウニ、イキノヌケヌヤウニ建ルカ習也」
 「濃茶呑ヤウ」
 濃茶は、茶葉の固まらないようにともかく一生懸命かき混ぜることが肝要であり、その点、薄茶の場合は点前の作法の美しさを表現することに意義があり、むしろ薄茶の方が真の茶の湯であるとした。
 濃茶については、むしろその飲み方に意義を見出していた。

 

南宗寺 実相庵 松孤軒 濃茶席 (平成24年4月27日)

 ジョアン・ロドリーゲスは、濃茶は、一座の客人を自慢の高級茶葉でもてなすことを目的としており、ましてミサにおけるぶどう酒のように聖なるものとの機縁を込めた儀式としてではなく、客人を主体にその求めに応じて自慢の茶をもてなす謙譲の形として記している。
 また、飲む段にあっては、その順番は主賓からと一座の客の間で暗黙の了解があり、主賓の後は、相互に同席の客人に礼を尽くしながら順番に飲みまわしていく互礼の形式として著しており、1596年に司祭の資格を取得していたが、ミサにおけるぶどう酒の飲みまわしとの共通性を示唆することなく茶の湯の作法としてのみ記述していた。
 千利休の高弟七人衆(利休七哲)の中には、高山右近をはじめキリシタンとなった大名が4人もいたため利休のキリシタン説が話題にされているが、ロドリーゲスに先立って日本での宣教活動に取り組んでいたルイス・フロイスは、著作『日本史』の中で「宗易はジュスト(高山右近)の親友であるが、異教徒である」と断定的に述べ、ロドリーゲスとともに、当時、織田信長や豊臣秀吉の茶頭として社会的地位が高かったにもかかわらず異教徒の千利休について触れることはなかった。
 一方、天正14年(1586)9月18日朝(『松屋會記』)、山上宗二が亭主として豊臣秀長と松屋久秀をもてなした濃茶飲みまわしの席に事例が見られる。その他特異な例としては、一座の客人数が多い場合に、飲みまわしの順番をくじ引きで決めることもあった(『宗湛日記』:天正15年1月3日、『松屋會記』:天正17年9月24日朝)。
 中世の頃、一揆が社会的に許容され、多くの人々が共同で飲食して一体感を呼び起こす「一味同心」の風潮が強かった。
 自治都市・堺にあっては、会合衆と呼ばれた有力者によって治められており、その顔触れは紅屋宗陽、塩屋宗悦、今井宗久、茜屋宗左、山上宗二、松江隆仙、高三隆世、千宗易、油屋常琢、津田宗及など10人衆で、高名な茶人を含んでいた。
 これら会合衆は、利害の異なる諸集団を一つの都市としてまとめる調停機能を持ち、さらに外交・自衛組織となり幕府や守護と関わる役目があり相互の信頼関係の構築と結束が求められる立場にあった。茶の湯を通して一味同心の環境づくりには腐心していたと考えられる。

 まとめ

  ルイス・フロイスは、著作『日本史』の中で「宗易はジュスト(高山右近)の親友であるが、異教徒である」と断定的に述べ、ジョアン・ロドリーゲスとともに、16世紀後半、織田信長や豊臣秀吉の茶頭として社会的地位が高かったにもかかわらず異教徒の千利休について触れることはなかった。
 ロドリーゲスは1596年に司祭の資格を取得していたが、濃茶は一座の客人を自慢の高級茶葉でもてなすことを目的としており、ましてミサにおけるぶどう酒のように聖なるものとの機縁を込めた儀式としてではなく、客人を主体にその求めに応じて自慢の茶をもてなす謙譲の形として記し、ミサにおけるぶどう酒の飲みまわしとの共通性を示唆することはなかった。
 一方、『松屋會記』や『宗湛日記』など茶会記にも茶の飲みまわしに関する記禄があり、天正14年(1586)9月18日朝、山上宗二が亭主として豊臣秀長と松屋久政を濃茶でもてなす席に飲みまわす事例が見られる。特異な事例としては、参会の客人が多い席にあって、くじ引きで飲む順番を決めることもあった。
 日常的に身近なところで戦乱の絶えない戦国時代にあって、利害の異なる諸集団を一つの
都市としてまとめる調停機能を持ち、自衛組織として幕府や守護と関わる役目があった堺の会合衆は相互の信頼関係の構築に腐心していた。
 千利休をはじめ、今井宗久、津田宗及、山上宗二など茶人を含む会合衆にとって、上質の茶葉を用いて手間と時間をかけ丹精をこめて練り点てた濃茶をもてなす席は、一味同心のもと相互信頼の証として一つの茶碗から相互に回して飲むことを習わしとしたと考える。


詳論目次

  はじめに

  1.ジョアン・ロドリゲ‐スが見た「濃い茶」運び手前

  2.『茶会記』における「御茶(茶)-薄茶」二服もてなしの事例

  3.茶の湯大成の背景

  4.「濃茶呑ヤウ」 考察

  5.まとめ

  註および参考文献

 

山上宗二忌 懇話会 奥左から 谷本陽蔵氏 角山 榮氏 神津朝夫氏 小野雲峰氏

(平成25年4月22日 南宗寺塔頭・天慶院)

謝 辞
 昨年(平成23年4月11日)、「はなやか関西~文化首都年~2011“茶の文化”」協賛行事「山上宗二忌」(堺市・臨済宗大徳寺派龍興山南宗寺塔頭・天慶院)において主宰者・(株)つぼ市製茶本舗会長 谷本陽蔵様のご厚意により恥を顧みることなく拙論「十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図」説明の機会をいただきました。
 それを機会に、郷土・堺の文化「茶の湯」について一層関心を高め、ライフワークとして取り組む励みとさせていただきました。
 さらに、谷本陽蔵様には南宗寺献茶式(平成24年4月27日)へお誘いをいただき、初めて濃茶を含む大茶会を体験し「茶の湯」の深淵なる奥に触れさせていただきました。
 奇しくも、千利休の高弟・山上宗二により著された『山上宗二記』に茶湯者覚悟十體の一つして「濃茶呑ヤウ」が挙げられており、その意義について自問するところとなりました。
 その意図するところを掘り下げて学びたいという思いに駆られ本論を起こすことになりました。
 「山上宗二忌」事務局・堺市立泉北すえむら資料館学芸員 森村健一様には、本論をご校閲いただきました上に、再び「山上宗二忌」(平成25年4月11日)においてご説明の機会をお勧めをいただき、谷本陽蔵様にご紹介の労をお取りいただきました。
 我が身の未熟さも省みることなく、思いに任せてお言葉に甘えさせていただくことにしました。これも、ひとえに谷本陽蔵様と森村健一様のご厚意の賜物と深く感謝いたします。
 また、本論の構成に際して、浅学非才の故に先学の多くの玉書・玉論に学ばせていただき、それぞれの成果を幅広く引用させていただきました。ここに原著者各位に寛大なるご容赦をお願いしますとともに厚く御礼申し上げます。 

 

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泉州堺の石工活躍の背景 家康・宗薫・政宗 その出会いと連携

2017-07-22 23:50:54 | 歴史

<語り部講座>
   仙臺すずめ踊り 泉州堺の石工活躍の背景 その2


徳川家康 今井宗薫 伊達政宗 その出会いと連携

前 田 秀 一

「堺から日本へ!世界へ!」主宰


   「関連情報」
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     仙臺すずめ踊り 泉州堺の石工活躍の背景 その1  詳しくはこちらから
     利休切腹の背景 伊達政宗と徳川家康  詳しくはこちらから

 仙台城の石垣造りに馳せ参じ、完成後の移徒式の宴席で踊ったと伝わる泉州堺の石工衆の“粋”(ダイナミズム)に感じて“堺すずめ踊り”の普及活動に取り組み、今年10周年を迎えた。


 

第40回堺まつり 仙臺すずめ踊り 伊達の舞     第30回仙台・青葉まつり 堺すずめ踊り


 図らずも、今年から来年にかけて大坂冬の陣(慶長19年11月)および大坂夏の陣(慶長20年5月)以来400年目を迎えるのを記念して、太閤・秀吉没後の豊臣家や「大坂の陣」についての理解を深める事業「大坂の陣400年天下一祭り」が大坂城公園および周辺地において開催されることになった。

 折しも、30年ぶりの発掘調査の結果、豊臣期大坂城の中枢を占めた重要な石垣の部分が発見され、さらに平成27年(2015年)に向けて全体像が明らかにされる予定である。
   「豊臣石垣コラム」 詳しくはこちらから

 豊臣期大坂城の石垣の築造は、自然石をそのまま積み上げる「野面積(のづらづみ)」方式と言われているが、これは織田期安土城の築城の際に「穴太衆」が駆使した石垣づくりの工法であり、近世初頭の城郭づくりに活かされ広く普及した。

      
安土城 野面積み石垣          自然石の中には、神仏を否定した信長の命で仏石も使用された


 泉州の石工は、近世に和泉国日根郡、現在の大阪府阪南市、泉南市、泉南郡岬町付近を本拠に全国で活躍した石工集団で、近世初期に同じ近畿地方から出て全国で活躍した。
  

  

     宝永4年(1707)堺絵図 「石屋町」、「北石切町」、「南石切町」    泉州・堺の石工頭領 黒田屋八兵衛墓碑


 近江の穴太衆と異なるのは、近世城郭の巨大な石垣建設のための石組み工事より、むしろ石彫を得意とし石材の細密な加工や細かな碑文の製作も可能で、築城が活発でなくなった近世中期以降にもその足跡を各地に残し活動時期が長かったことが知られている。

 泉州・堺の石工が仙台城で築造した石垣は「野面積」であった。
     仙台市文化財調査報告書 第270号「仙台城址3」平成15年度報告書 詳しくはこちらから

 安土城の築造は、「天下布武」を掲げる織田信長が陣頭に立って進め、豊臣期の大坂城は「天下惣無事」令の威容を表す城として築造された。伊達政宗は関ヶ原の戦いの後、徳川家康の許しを得て青葉山に登り、徳川幕府の「天下普請」に先駆けて仙台城の縄張りをはじめた。
 関東を超えて遠距離にある奥州・仙台への泉州・堺の石工の派遣は、堺の茶人で商人であった今井宗薫によって斡旋されたが、今井宗薫と伊達政宗の出会いの機会がどのように設けられたのか、それがどのように展開して繋がっていったのか、高橋あけみ氏の研究成果(1)の中に経緯を追ってみた。
 


 伊達政宗と今井宗薫の出会いは、天正18年3月1日、豊臣秀吉が東国征伐の第1段として北条氏の小田原城攻めに出陣した時であった。
 政宗は秀吉の東国征伐の本気度に驚き、あわてて小田原に参陣し6月5日に到着したが、遅参を怒った秀吉が会見を拒否し底倉に待機を命じられた。
 6月7日、施薬院全宗ら5名により尋問を受けた後、翌8日に宗薫が施役院全宗とともに千利休の代理で政宗を見舞い、二人が初対面した。
 6月9日、秀吉に対面して釈明した際、政宗は「千利休の茶の湯を拝見いたしたい」と申し出て秀吉のご機嫌をとり、茶の湯に関心があることに免じて酌量され遅参を許された、
 7月5日、小田原の落城後、奥州知行割仕置をすませ、豊臣秀吉が名実共に天下統一を果たして帰洛する際、8月12日付けで宗薫から政宗宛に手紙が送られ、両者間の初めての文通となった。
 以後、慶長4年から6年の間、天下分け目の関ヶ原合戦(慶長5年9月15日)を挟んで集中的に宗薫と政宗間の手紙の交換が行われた(表‐1)。確認できたものとして、宗薫と政宗の間には終生計46通が交換され、それらの内、宗薫⇒政宗13通、政宗⇒宗薫33通あった。
 これらのうち、特に注目をひくのが、慶長4年正月、徳川家康の命を受け宗薫が家康の第六男・松平忠輝と政宗の長女・五郎八姫との婚約を仲介したのを機会に、政宗から宗薫へ家康への誓詞や伝言を含めて手紙が送られるようになり、慶長5年(1600)9月25日には、早々とその内容に関ヶ原合戦(慶長5年9月15日)や戦後処理のことも含まれるようになった。
 慶長5年(1600)12月24日、政宗は徳川家康の許しを得ていち早く青葉山に登り仙台城の縄張りをはじめた。
 慶長6年(1601)4月21日付の宗薫に宛てた政宗の手紙(6)には、

 「豊臣秀頼は、江戸か伏見か、家康様のおそばにおいて、おとなしく成人させ、無事成人の暁には家康様のご分別でしかるべく取り立てるのがよい。・・・現在のように大坂にふらりと置いておくと、世にいたずら者どもが現れ、秀頼様を大将にまつりあげ、謀反を起こすことにもなりかねない。そのために秀頼様が切腹なされるような事態にでもなれば、それこそ太閤殿下の亡魂に対して申し訳が立たない。」

と13年後の大坂の陣を洞察した内容を書き送り徳川家康の重臣・本多正信への進言を依頼した。


 松平忠輝と五郎八姫は慶長11年(1606)に結婚するが、宗薫は大坂方に睨まれ、慶長19年(1614)11月大坂冬の陣が起こると関東に通じているとして大坂方に捕えられ、家財や茶器などを没収され、大坂城内に監禁された。

 幸いにして織田有楽のとりなしで命拾いした宗薫は高野山に追放となるが、大坂夏の陣では家康のもとで再び政宗のもとへ情報を送っている。


 元和の時代になっても、宗薫は家康と政宗の政治的な連絡役として活躍し、政宗は宗薫に一目置いていたと見られる。
 しかし、宗薫の晩年は、大坂方に家財と茶器を没収されており、今井家秘伝の茶の湯書の元本を仙臺藩士に書写させるなど、当初の勢力はなく息子・平左衛門とともに政宗邸を訪れ茶会にも加わり政宗を頼っている様子がうかがえた。
 
 大坂の陣で灰燼に帰した大坂城は、元和5年(1619)に幕府直轄領(天領)に編入され、翌元和6年(1620)から2代将軍徳川秀忠によって再建が始められ3期にわたる工事を経て寛永6年(1629)に完成した。
 徳川幕府の目的は、特に伊勢と越中を結ぶ線より以西の大名計65家を対象に、温存されている勢力を削ぐ一策として、西国大名を天下普請と称し大規模な大坂城公儀普請に駆り出し、その財政を逼迫させることにあった。


 徳川期大坂城は、豊臣期大坂城の石垣と堀を破却して、全体に高さ約1メートルから10メートルの盛り土をした上により高く石垣を積んだため豊臣期大坂城の遺構は地中に埋もれてしまった。
 大坂城の城郭の大きさは豊臣時代の4分の1の規模に縮小されたものの、天守はその高さも総床面積も豊臣期のそれを越える規模のものが構築された。

 特に、堀の掘削と石垣構築は過酷とも言える負担として諸大名に割り当てられ、二重に廻らせた堀割は江戸城をしのぐ規模となった。                    

 大量の巨石を積み上げ、しかも石材間の噛み合わせ密にして精度よく築いていた石垣積みの技術(「打込接ぎ」、「切込接ぎ」、「算木積み」)は当時としては最高出の来栄えで、各藩を競わせた成果でり、要した工期10年間はむしろ短期の工期とも言える。

 

 徳川期大坂城石垣の一部には、廃城となった伏見城の石材が、約1/3程度使用されている。
 残りについては、良質な花崗岩の産地であった瀬戸内海の多数の島々から尼崎港や西宮港に陸揚げされ、兵庫県では芦屋や御影近辺、そして生駒山の日下や石切辺りから切り出され運ばれた。
 江戸城の場合は、将軍の居城と言うことで見えるところには刻印は打てなかったが、大坂城の場合は以下の理由で多数の刻印(右図事例)が打たれている。
    1.良質の石を算出する石丁場の確保、印つけ
        -大名家の家紋、担当家臣の印、石工の符丁
    2.石垣を積む担当丁場の区分の明確化
        -石垣普請と言う“いくさ”の戦績誇示
    3.工程表示

 大坂城は、石垣の規模が格段に大きいだけでなく、堅くて良質の花崗岩からなり、しかも要所には、比類のない巨石が多く使われており、従来の築造技術よりは飛躍的に高度化し全国の城郭のなかでも抜きんでた存在である。

<まとめ>

 泉州堺の石工が馳せ参じた経緯と豊臣期および徳川期の大阪城築城の状況を勘案すると、戦国時代の当時にあって茶人として政治的な地位を得ていたとはいえ、今井宗薫の斡旋で泉州堺の石工が仙台城築城に関わったのは特異なケースと言える。
 さらに今井宗薫はかつて豊臣方から嫌疑をかけられており、そのため、石工たちは仙台城が完成しても秘密保持のため留めおかれ、群雄が割拠している関西(堺)へは帰ることを許されなかったと考察する。

 一方、大阪城普請の場合は、いずれも、時の戦略家(武将)が縄張りを担当し、諸大名に公儀普請を負わせた。
    豊臣期大阪城  縄張り 黒田官平衛   天下惣無事
    徳川期大阪城  縄張り 藤堂高虎     天下普請
 当時城下町ではなかった堺の商人や石工衆(その背景には堺の寺院がある)との直接的な支配関係があったのかどうかは
不明である。
 場合によっては、時の天下人(為政者)による大号令の取り組みであったことを考えると、人海戦術的に駆り出されて参加していたかもしれない。

 

<引用文献>
1.高橋あけみ「今井宗薫と伊達政宗-宗薫家茶の湯書(佐藤家本)の意義-」
        2003熊倉功夫編『茶人と茶の湯の研究』294頁 思文閣出版
2.津村晃佑「現代に生きる伝統芸能-すずめ踊りの人類学的研究」
2003『東北人類学論壇』第2号 39頁(東北大学文学研究科文化人類学研究室)
3.天野光三、左崎俊治、落合東興、川崎勝己、金谷善晴、西川禎亮
  「徳川期大坂城の石積み施工技術に関する考察」1996『土木史研究』第16号 619頁
4.菅野良男2011『刻印で楽しむ三大名城の石垣物語』
5.ウィキペディア フリー百科事典「安土城」、「大坂城」、「仙台城」、「泉州石工」
6.市指定文化財「伊達政宗自筆書状」(河内長野市・観心寺所蔵)
http://www.city.kawachinagano.lg.jp/static/kakuka/kyousha/history-hp/bunkazai/date-base/isan-date/city/shi72.html 

 

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第7回ゆめづくりまちづくり賞「奨励賞」受賞記念植樹

2017-07-22 23:49:53 | 地域文化

“堺すずめ踊り”普及活動10周年

  


 “堺すずめ踊り”普及活動10周年を記念して快適都市実現委員会(国土交通省近畿地方整備局)主催、安藤忠雄審査委員長による第7回 ゆめづくりまちづくり賞に応募しました。
 厳正なる審査の結果、堺すずめ踊り協賛会の「堺にゆかりある“すずめ踊り”を絆とした“人が輝く元気なまち”づくり」の活動が「奨励賞」を受賞しました。
 審査の結果によりますと、当会は、特に活動の持続可能性を見据え実技者単位の組織と財政基盤づくりの組織を分離するなど他地域へのモデル性が高いこと、さらに泉州堺の石工衆が陸奥の武将・伊達政宗の前で踊ったとの伝説がある“すずめ踊り”を、これまでになかった堺に普及させるなど地域の魅力を発見した点等において高い評価を得ました。

  


“堺すずめ踊り”普及活動の経緯と展望

“堺すずめ踊り”普及活動10年の歩み」こちらから
「泉州堺の石工活躍の背景 徳川家康、今井宗薫、伊達政宗」こちらから
「“すずめ踊り” 黒田家400年の伝承」こちらから
「“堺すずめ踊り”20周年の盛会を目指して!」こちらから


「中之町公園」界隈と“すずめ踊り”伝説のゆかり

参考:利晶の杜」へはこちらから

 堺は、中世には世界的な商業都市として栄え、会合衆と呼ばれる町衆が納める自治都市でした。
 これら堺の商人が蓄えた富は、寺町としての堺を支え、茶の湯など堺独自の文化を醸成し、多くの種類の職人が共存していました。
 元禄二年(1689)「堺大絵図」にはそれぞれの職人が寄り合う町にそれぞれの職種に応じた固有の町名がつけられ多種な堺衆文化を形成していたことがうかがえます。

 その一例として、大町以南の大寺院区には寺院の石造物と関わりの深い石工衆の町があり、大永三年(1523)十二月吉日付念仏寺供料等寄進目録には、すでに石屋町(現中之町西二丁)の町名が見え、その界隈に関連職業集団として石工衆が北石切町(現中之町三丁)と南石切町(現寺地町西三丁)に分かれて住んでいたことが知られています。
 慶長五年(1600)、関ケ原の戦いで徳川家康軍の勝利に貢献し陸奥の武将・伊達政宗が初めて自分の城を造る時に、懇意にしていた堺の商人で茶人・今井宗薫を通して徳川家康に築城の許しを得、八年間の上方生活で身近に観察した桃山文化を陸奥で再現したいと石工衆をはじめ職人衆の手配を頼みました。

 
 慶長八年(1603)、仙台城新築移転の儀式の宴席で泉州堺から来ていた石工衆が城主・伊達政宗の前で即興的に踊りを披露し、西国らしい小気味良いテンポ、躍動感あふれる身振り、伊達家の家紋「竹に雀」にちなんで、跳ねる姿がえさをついばむ雀に似ているとして“すずめ踊り”と名付けられたそうです。
 しかし、踊りを披露した石工衆たちは、お城の築造につぶさに関わり、構造的な秘密を知っていたため仙台の地に引き留められました。与えられた城下の土地を北石切町と南石切町と名付けて住みつき、石尊神社・瀬田谷不動尊の祭礼などに“すずめ踊り”を奉納しながら今日まで石工衆の子孫により踊り伝えられてきたそうです。

 

第7回ゆめづくりまちづくり賞「奨励賞」授賞式、記念植樹

平成27年3月24日(火) 午後2時~   堺区中之町西2丁「中之町公園」

     

      ”堺すずめ踊り”の人々                         賞牌授与                  国土交通省、堺市、地元住民の方々

賞牌披露(左:葛村和正堺すずめ踊り協賛会会長、右:牟禮輝久近畿地方整備局広報広聴対策官)

 

              お祝の言葉 笠谷 実 堺市文化観光局長         お礼の言葉 葛村和正 堺すずめ踊り協賛会会長


左から 葛村和正「協賛会」会長 笠谷 実堺市文化観光局長 波々伯部 稔英彰校区自治連合会副会長、
牟禮輝久近畿地方整備局広報広聴対策官、北側和代「協賛会」事務局長、早川すずえ「連盟」事務局長、
永松義敬所長大和川河川事務所所長

第7回ゆめづくりまちづくり賞「奨励賞」記念植樹 記念写真

 

式典終了後 くつろぎの光景

  

植樹:平成27年3月24日            初開花:平成27年3月30日                    満開:平成27年4月2日


石工衆の里にソメイヨシノが蘇った!

 


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