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茶の湯におけるキリシタン受容の構図

2017-05-02 01:33:17 | 茶の湯

十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図

前 田 秀 一
「堺から日本へ!世界へ!」主宰

<本論要旨>
  http://jsmaeda072.webcrow.jp/chayutochristian.html


5.茶の湯とキリシタンの受容

 アルメイダとフロイスは、茶の湯に初めて出会った機会は異なってはいたが、特徴的なことは、共に茶室を清浄で人々に地上の安らぎを与える場であることを認めたことである。さらに、司祭の資格を有するフロイスにとっては、茶室はキリシタンを集めミサ聖祭を捧げるに足る神聖な場所であった。
 ヴァリニャーノは、今回(第1回:1579~1582年)の日本巡察滞在中に著した「日本の風習と形儀に関する注意と助言」でヨーロッパ人と日本人イエズス会員の融和、ならびに聖職者と世俗の人々との円滑な交流のための心得を説いた22)(p100~104)。
「第一に、ヨーロッパの諸条件や態度、行為によって彼らを導こうとせずに、彼らの条件なり方法によって待遇することが必要である。
第二に、進歩のために採らねばならぬ方法は、彼らが心を触れ合いたいと考えることについては、ことごとくこれを教え、説得することである。彼らは生来その性格は萎縮的で隠蔽的であるから、心を触れ合おうという気持ちを起こさせ、納得せしめることが必要である。
 第三は、日本人の風習に従うならば、彼らはただちに我らに同調し、すべてそれを行った人々の経験から知られるように、彼らは我らに愛情を抱くようになるであろう。従って、この点において欠如する危険があるとすれば、彼らの側よりは、むしろ我らの側である。すなわち、彼らはいかなることにおいても、その風習を放棄しはせぬのであるから、すべて我らの方から彼らに順応せねばならず、それは日本では必要なことであり、我らは大いに努力せねばならぬからである。ある場合には、我らは天性までも変え、大いなる苦しみによってそれを成すのであるから、この統一のために必要なことを行う困難は、我らの側にあって日本人の側にではない。」
 上記のうち「第3」はヴァリニャーが日本への布教戦略として提唱した「適応主義」の核心に触れる内容であり、「風習」という表現ながら日本文化の規範として茶の湯を受容する姿勢を示した。
 高山右近は、戦国大名として主従関係にあった摂津国主・荒木村重に茶の湯の手ほどきを受け、千宗易を紹介され師事した。
 山上宗二に茶の湯は「数寄の覚悟は禅宗を全うべきなり」、「惣別、茶湯風体、禅宗よりなるにより出で、悉く学ぶ」と説かれ、フロイスに千宗易(後に、利休)は異教徒と言われ21)(p239)たが、キリシタンとして偶像崇拝を認めない高山右近は、茶の湯を禅宗の一様式としてではなく、この道に身を投じてその目的を真実に貫く者には数寄が道徳と隠遁のために大きな助けとなる芸道であると悟り精進した3)(p638)。
 すなわち、「精神を浄化し、救霊を成就する芸道」と受け止め、利休高弟七人衆(利休七哲)4)の説得に活かし牧村長兵衛、蒲生氏郷、織田有楽など高名な茶人3人を説得してキリシタンに導いた。
 高山右近が本格的に茶の湯に没頭したのは、関白秀吉が伴天連追放令を発して改易(所領、地位没収)された後、天正16年(1588)、豊臣秀長など多くの貴人からの嘆願により五畿内以外の地での行動の自由を許され、加賀藩・前田利家に茶匠・南坊(南之坊)として迎えられてからである。それは、慶長19年(1614)徳川家康が発した伴天連国外追放令によりフィリピンへ亡命するまでの約26年間であった。

 キリスト教宣教師は、日本の社会支配の重要な位置づけにある有力者が茶の湯を尊敬し、生活文化の規範としていることを発見した。日比屋了珪は、都を目指して堺の港に上陸したキリシタン宣教師に帰依し、自らも洗礼を受けてキリスト教信者となり献身的に布教活動を支え、生活文化としての茶の湯を伝える役目を果たした。
 一方、高槻城主となった高山右近は、1573年、主従関係にあった摂津国主・荒木村重から茶の湯の手ほどきを受け、千利休を紹介され師事した。1574年、日本布教長カブラルからキリスト教教理を再教育され、あらためてキリスト教に目覚め、自ら卓抜な説教者となり五畿内キリシタンの柱石となった。
キリシタンとして偶像崇拝を認めない高山右近は、禅宗の一様式としてではなく茶の湯を「精神を浄化し、救霊を成就する芸道」と受け止めた。つまり、仏教に通じる「禅」(座禅)の精神としてではなく、デウスの導きを深め、すがるための体験的な「道」としての時空間(市中の山居)と位置付けた。
 従って、高山右近は、ときおりキリシタン宣教師に「この道(キリスト教信仰)に身を投じてその目的を真実に貫く者には、数寄が道徳と隠遁のために大きな助けとなるとわかった」と言い、また、「デウスにすがるために一つの肖像をかの小屋(茶室)に置いてデウスにすがるために落ち着いて隠退することができた」(ジョアン・ロドリゲス『日本教会史』、p.638)と語り、茶の湯がキリシタンにとっても相入れ合う様式(文化)であることを伝え、日本巡察師ヴァリニャーノに「礼法指針」への茶室の折り込みを促した。
 キリシタンは、茶の湯を「禅宗」の一様式してではなく「禅」の一様式として、冒頭の山上宗二の記述に従えば「数寄の覚悟は“禅”を全と用うべきなり」、「惣別、茶湯風体、“禅”よりなるにより出で、悉く学ぶ」と受け止めていたと考察する。

 

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