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キリシタン受容の構図-河内国の受容-定着

2016-10-07 22:38:20 | 茶の湯

十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図

前 田 秀 一

「堺から日本へ、世界へ!」主宰

<本論要旨>は こちらから


2)三好政権配下、河内国の武将たちのキリシタン受容 -定着

(1)三好政権の国づくり

 三好長慶は、越水城(1539年)、そして芥川山城(1553年)に本拠地を置き摂津を本国として畿内に勢力を拡大させてきた。近江・朽木に逃れていた将軍・足利義輝との和睦を進め、都方面の戦争を終結に向かわせる一方、河内・大和方面へ進出するために河内の守護大名・畠山氏との戦いが本格してきた永禄3年(1560)に居城を河内・飯盛山城に移し、岡山(結城ジョアン)、三箇(三箇頼照)、多聞山(松永久秀)、砂(結城左衛門尉)、沢(高山重房)の地に配下を集め、最盛期には約四万人以上と言われたキリシタンを擁する大地域を形成し新たな政治拠点とした19)(p84)。
 一連の戦いの中で三好政成(三個城城主、1562年没)や三好義賢(實休、阿波三好家、1562年没)など一族の有力者を失ったが、畠山氏の勢力が瓦解し三好長慶の軍門に下って、永禄5年(1562)6月には畿内を制覇(三好政権:1549~1567年)した。 戦いの後、四弟・十河一存(1561年)、嫡男・三好義興(1563年)および三弟・安宅冬康(1564年)を相次いで失い、三好長慶は覇気をなくし永禄7年(1564)8月10日に飯盛山城で病死した。
 その後、三好長慶の娘婿で三好家の家宰・松永弾正久秀(霜台)が台頭し、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と共に政権を支配した。
 「当時天下の最高統治権を掌握し、専制的に支配していたのは松永霜台(久秀)であった。すなわち、彼はその点、偉大にして稀有の天稟の才能の持ち主であった。彼は完全に自らに服従せしめていた大和の国の、奈良の市街に近い多聞山という立派な一城に住んでいた。そして五畿内においては、彼が命じたこと以外は何もなされぬ様であったから、位階や門閥においては彼を凌駕する多くの高貴な人たちが彼に奉仕していた。
その人たちの中に結城山城殿(結城山城守進斎忠正)という一老人もいた。彼は学問および交霊術において著名であり、偉大な剣術家で、書状をしたためたり添削することにかけて有能であり、日本の学問(の程度)に応じた天文学にはなはだ通暁していた。彼には、かくも多くの稀有の才能が集まっていたので、彼は天下のもっとも高貴な人々から非常に敬われ、松永霜台は彼に幾多の好意を示していた。」17)(p159)

(2)飯盛山、岡山、三箇、砂、多聞山、沢地域の受容

 永禄6年(1563)6月27日、結城山城守からの要請に応じて「司祭(ヴィレラ)は遅滞することなく、さっそく大和に向かって出発し、結城進斎を訪れたところ、彼はその来訪を大いに喜んだ。(司祭)がしばらく(結城殿)および(清原)外記殿(清原枝賢)と語らった後、ある宿に落ち着いたところ、そこへおびただしい聴衆が参集した。それらの人すべてに全く満足のいく説教が行われ、ほとんど全員が聴聞したことに理解を示した。・・・しかし結城殿と外記殿は、もう一度特に説教を聞き、聴聞した最高至上の教えに全く満足し、両人は聖なる洗礼を受けるに至った。
 沢城主・高山厨書(重房)殿という別の貴人はこれを聞き、自らは(松永)霜台の使命を帯びて、ある他の地方へ急ぎ派遣されたにもかかわらず、出発したように見せかけ、奈良市内の一軒の家に二日二晩隠れ留まって、日夜絶えずデウスのことを聴聞した。彼はそれに異常なばかり感銘し、直ちにそこで聖なる洗礼を受け、ダリオの(教)名を授かった。彼は、都近隣の全ての地方、諸国におけるもっとも優れたキリシタンの一人であり、その言行によってだれからも常に確認されたところであるが、(日本)の初代教会の強固な柱石となった。
 司祭は松永霜台のところへも訪ねて行った。(霜台)はいとも鄭重慇懃に彼を迎え、時間に余裕があれば説教を聞くのだが、用務に妨げられて(果し得ない)と言った。しかし(霜台)は、全(宗派の)内でもっとも頑迷固陋な法華宗に属しており、仏僧たちの大の友人であったから、すでにそれまでも司祭ならびにデウスのことにははなはだしい悪意を抱いていたが、(司祭)に対していっそう激しく顕著な反感を示したことは、彼のその後の行いが物語るとおりであった。」17)(p170~171)
 「これら二人(結城山城守進斎忠正と清原枝賢)の大身をキリシタンに導き給うたデウスの御摂理は偉大であった。すなわち、それは都において、聖なる福音について(従来とは)異なった見解を生ぜしめるのに大いに寄与したのみならず、彼らの模範に倣う者が現れ、身分の高い武士や、高位、高官の人たちがキリシタンになり始めた。
 飯盛山城の近く砂の寺内というところに邸を持っていた結城山城殿の長男は、既述のように同じく奈良で父と共に洗礼を受け、結城アンタン左衛門尉殿と称し、当時天下のもっとも著名な支配者の一人であった三好殿(三好長慶)につかえていた。」17)(p175)
 「三好殿幕下の七十三名の貴人たちはまったく納得して、すぐにもキリシタンになることを決心するに至った。その中には、三人の首領ならびに重立った人たちがいた。重立った人たちの一人は三ヶ伯耆殿、二人目は池田丹後殿、三人目は三木判太夫殿であった。」17)(p178)
 「その国(河内の国)の、特に三つの地方には、堅固で、よく整ったキリシタン集団が存在していた。その第一は、岡山で、結城ジョアン殿が、その城の主君でもあった。第二の場所は三ヶ(さんが)である。初期に当国で改修が行われた(時の)代表的な一地(域)であり、それはこの地の領主である三ヶ(頼照)殿の努力に負うところであったから、オルガンチーノ師は当然(のこととして)この地では多数(二千ないし三千名)をキリシタンにすることができた。第三の(場所)は、若江と称されるところで、そこには飯盛山城で最初に(キリシタンに)なった人々の内の多くの貴人たちが住んでいた。彼らは(元来)河内の国主、三好殿(三好長慶、三好義継)の家臣であった。(しかるに)信長は、この三好(殿)を殺害せしめ(1573年12月10日)たので、池田丹後シメアン殿がこれらの家臣の頭になった。」20)(p8)

 

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