堺から日本へ! 世界へ!

堺の歴史・文化の再発見、再生、創造、魅力情報発信!

誇りを知るまつり 1600年の歴史と文化に出会う「堺」!

2016-10-07 11:01:44 | 歴史

 大宝元年(701)、大宝律令の完成にともない、はじめは「摂津国」と「河内国」が置かれ、天平宝字元年(757)に「河内国」から大鳥、和泉、日根の3郡が分離して「和泉国」が設置された。
 「摂」、「河」、「泉」(「摂河泉」)三国の境界(「三国山」、「三国丘」)にある“まち”の位置づけから、特に、熊野詣が盛んになった平安時代より「境」⇒「さか井」(1045年)⇒「堺」(1081年)と私称が展開し、後に、固有の地名として「堺」が国境の“まち”の同義語として語られるようになった。

詳しくは、こちらから

堺の“ひかり”もの

 日本が、初めて国家を形成したのは5世紀の百舌鳥古墳群一帯であり「河内王国」と提唱され、「大和王権」国家に先立つことであり歴史的に注目されている。第2の国家形成は、織田信長による全国統治の時期であり、それは、豊臣秀吉によって引き継がれ南蛮文化によって花開いた中世の国家となった。その後、徳川家康によって江戸幕府が開府し、首都が関西から関東へ移動して第3の国家が始まった。近代国家の始まりは明治維新であり、第2次世界大戦後は現代国家としてさらに生まれ変わった。
 これらの過程にあって、堺は、その時代に応じて重要な位置づけにあったが、特に、第1次および第2次国家形成の時代にあっては、その中心にあったことが注目されている。
また、中世から近世においては、堺の港がキリシタン文明到来の玄関口となり、外国のみならず国内諸国からの文化の窓口として、人、もの、情報の集まる商業都市として世界的に注目され、「ものの始まりなんでも堺」とうたわれ文化、技術の発信地となった。

旧石器・縄文・弥生時代 集落・水耕稲作遺跡「四ツ池遺跡」(国指定史跡)

   

 石津川流域下流左岸に四ツ池集落遺跡が存在し、三方を崖と自然の河川に囲まれた3.5ヘクタールの地に「国」と呼ばれる集落(ムラ)が形成され、石津川を利用して、直接、茅渟(チヌ)の海(現大阪湾)に漕ぎ出す舟運の便に恵まれていた。
 そのムラには、大、中規模の墓が存在し整備されたムラであり、水田稲作により食糧の大量生産体制が整い、さらに、銅鐸も発見され金属器の使用が考証されている。
 古墳時代に向けた社会的基盤の構築にむけた足掛かりを築いていた。

古墳時代(5世紀) 世界遺産を目指す「百舌鳥古墳群」

 仁徳天皇が高津の宮を営み、在位中から百舌鳥の地に巨大な大仙古墳が築造された。そのほかに履中陵(百舌鳥陵山古墳)、土師ニサンザイ古墳、御廟山古墳、反正陵(田出井山古墳)など大型古墳群が集中して築造された。これらの築造に携わった人々、食糧、物資の集中は、それまでに例を見なかった賑わいと想像される。
 また、5世紀前半ごろ、陶邑で、朝鮮半島南部渡来の工人による須恵器の生産が始り、平安時代まで約500年間続いた。新技術によって作られた硬い須恵器は、全国の需要を招き、列島住民の生活をも改変した。1962年には、泉北地域の開発に先立った発掘調査の結果、陶器山、高倉寺、栂、光明池地区などで600基以上の登り窯が発見された。
 堺市では、大阪府、羽曳野市、藤井寺市と協働で、古市古墳群と併せて百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録の早期実現をめざした取り組みを進めている。
 すでに、平成20年に世界遺産暫定一覧表に記載が適当と評価を受け、堺を含めた4自治体が連携し、登録に向けた事務の調整やユネスコへ提出する推薦書(案)の作成、登録気運の醸成に向けた事業などを進めている。

大和朝廷時代(7~8世紀) 民衆の救済に一生をささげた「行基」

  

 15歳で出家して奈良・薬師寺に入り法相宗を学んだ。その後、仏教が、国家の統制下におかれていた奈良時代、国に奉仕する仏教にあきたらず"広く民衆を救う"という仏教本来の姿を取り戻さなければと活動を起こした。
 まちへ出て民衆に教えを説き、旅人の行き倒れを助けることから始まった。
 行基の説教を支持する多くの民衆の協力を得て、道や池、溝、港、布施屋など社会事業施設を造り、狭山池や昆陽池なども造った。また、民衆のために、家原寺はじめ、49ものお寺を造った。
 行基菩薩と呼ばれ民衆の絶大な信仰を集めたため、無視することも出来なくなり、国も東大寺大仏建立事業に行基の力を借りることになった。そして天平17年(745)に、聖武天皇から我が国最初の大僧正の位に任ぜられた。
 衆生に対する慈悲を説く僧・行基の教えは、その後、遣唐使として唐に学んだ最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)に大きく影響を与え日本の大乗仏教実践の規範となり、方年、親鸞、一遍、日連など鎌倉仏教の教祖を生み出し浄土思想の普及に発展した。

中世(16世紀) 茶道を大成した侘び茶の祖「千利休」

 

  堺市今市町(現・堺区宿院町西)で、納屋衆・魚屋千与兵衛の長男として生れ、幼名を与四郎と言った。後に、禅の道に精進して、南宗寺の高僧・大林宗套から「宗易」の名を与えられた。
 当初、北向道陳に書院台子の茶を学び、19歳の時に武野紹鴎に茶の湯を学んだ。道具、茶室、料理などを徹底して「侘び」の思想を貫き、創意工夫を凝らして貴賎の別を越えた超俗の世界「草庵の茶室」を創り出した。宗教的な平等空間と中世・堺における自由経済競争における平等の思想を具体化した。
 後年、織田信長、豊臣秀吉に茶頭して仕え茶の湯天下一の名人と言われた。1585年に、正親町天皇に茶を献じた際に居士号の「利休」を勅賜され、1587年、秀吉が催した前代未聞といわれる大規模の北野大茶会を主宰した。
 1591年、不遜の行いがあったとして秀吉の怒りを買い、堺で自刃しその生涯を終えた。
 現代に伝わる3千家(武者小路、表、裏)は、娘婿・少庵の孫・宗旦の子供たちによって子々孫々継承されている。

近世(19~20世紀) 近代の先駆者「河口慧海」(仏教学)と「与謝野晶子」(歌人)

 

 明治に入ると廃藩置県により堺が明治政府の直轄地となり、1868年「堺県」として、現在の奈良県を含む大きな近代行政区域に昇格し、1881年2月に大阪府に編入されるまで続いた。
 1897年、早くから仏教に傾倒した河口慧海(堺区北旅籠町生れ)は、宇治・黄檗山万福寺塔頭で漢文大蔵経を読み、仏教の原典を求めてチベット行きを決意し、日本人で初めてヒマラヤ山脈を越え膨大なチベット語経典や民俗資料を収集して日本の仏教学の発展に尽くした。
 1901年、与謝野晶子(堺区甲斐町生れ)が第一歌集『乱れ髪』を刊行して脚光を浴び、以後、近代日本文学史のジャンルを開き、女性の経済的自立を訴えて活動し近代の「新しい人間像」として黎明期を担った。

 

堺の文化

中世 世界の商業都市「堺」の歴史と文化

  

 「海」は、古代からヒト、モノ、情報の遠隔交流の場として重要な役割を果たしてきた。
 堺の繁栄は、応仁・文明の乱の影響を受けて、堺港へ遣明船が入港した1469年から大坂夏の陣で堺のまちが壊滅的に戦火焼失する1615年までの約150年の間であった。
 その間、堺は、鉄砲の伝来、フランシスコ・ザビエルをはじめキリスト教宣教師の行き交うまちとなり、時の為政者・三好一族との相互支援のもと町人による自治・自由都市、国際貿易都市として栄え、日本の政治、経済、軍事戦略上重要な地位を築いた。


    ☆堺の“まち”文化の再発見、再生、創造
     ☆文化財公開
    ☆茶の湯  利休のふるさと「堺大茶会」
            茶の湯におけるキリシタン受容の構図
    ☆「堺まつり」 1600年の歴史に出会うまつり
    ☆堺の造り酒とその変遷
    ☆堺のお土産 逸品と名産

歴史と文化の共有による政令都市間交流の絆 “仙臺すずめ踊り“

 

 慶長5年(1600)、堺の茶人で有力な商人・今井宗薫は、陸奥の武将・伊達政宗の要請を受けて身近に住む堺の石工など上方職人の世話をした。
 慶長8年(1603)、念願の仙台城築城を目の前にして、伊達政宗は新築移転の儀式で宴席を設けて堺の石工たちを“もてなし”した。そのお礼のしるしに石工たちが即興的に飛んだり跳ねたり、その“慶び”を踊りに託して表現し、石工たちが踊る姿が伊達家の家紋「竹に雀」に記されている雀がえさをついばむ姿に似ていることから“すずめ踊り”と名付けられたと今に伝えられている。
 平成17年(2005)、第32回「堺まつり」に招聘し紹介されて以来、“仙臺すずめ踊り”を絆として堺と仙台の歴史と文化を共有した市民交流へと発展している。

     ☆仙臺すずめ踊り 泉州・堺の石工 活躍の背景
     ☆“すずめ踊り”黒田家四百年の伝承
     ☆シンポジウム「“すずめ踊り”を絆とした地域コミュニティづくり」
     ☆すずめ踊り普及日記

 

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