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キリシタン受容の構図-高山右近の生きざま

2016-10-07 22:36:30 | 茶の湯

十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図

前 田 秀 一

「堺から日本へ、世界へ!」主宰

<本論要旨>は こちらから


4.利休七哲 キリシタン大名・高山右近の生きざま

1)高槻城主・高山右近の誕生とキリスト教教理の再教育

 高山右近(幼名・彦五郎)は、天文21年(1552)高山友照(飛騨守、 ~1595))の嫡男とし摂津国・三島郡高山庄に生まれた。父・高山友照が奈良で琶法師だったイエズス会の修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、永禄7年(1564)6月洗礼を受けると同時に、当時の居城だった大和国宇陀郡の沢城で家族と家臣150名とともに洗礼を受けた。洗礼名は、父がダリオ、右近はジュストを授けられた。右近12歳の時だった17)(p186)
 永禄7年(1564)7月4日、三好長慶が河内国・飯盛山城で没すると、内紛などから三好政権は急速に衰退し、永禄11年(1568)9月、足利義昭(後の第15代将軍)を奉じて上洛した織田信長は、足利義昭の直臣・和田惟政を高槻城主に、自領を有する伊丹忠親(1552~1600年)と池田勝正(1539~1578年)の実効支配を追認し摂津・3守護体制を敷いた。高山父子は本来の所領地・摂津に帰り和田惟政に仕えた。元亀2年(1571年)8月28日、白井河原の戦い(茨木)で和田惟政が荒木村重に討たれると和田惟政の嫡子・和田惟長(1551~1573年)が高槻城の城主となった。
 「その城には、同地でもっとも賢明で、戦の事にきわめて経験を積んだ人の一人である高山ダリオ殿と、その息子ジュスト右近殿がいた。(右近殿)は、大いに卓越した個性の持ち主であり、その父同様に勇敢な兵士であり、若輩にもかかわらず、その輝かしい行為、ならびに勇敢な精神によって、大いに天下に勇名をとどろかせていた。それがため、彼もまた、(若い)和田殿の忠告者であり、ジュストは、良き兵士たちの頭であり、(和田)の貴人でもあった。そのおのおのにはそうした稀に見る(優れた)特徴があったために、和田殿の息子の側近者とか、数名の家人、または同郷の知人たちは(高山父子)に対して激しい憎悪を抱いていた。」18)(p275)
 元亀4年(1573)4月、「和田惟長は反高山側の家臣とともに高山右近を襲い右近自身は生死に関わる重傷を負ったが、高山の家臣たちの助けを得て和田惟長に重傷を負わせ死に至らしめた。この事件後、高山右近は荒木村重の支配下に入り、荒木村重が既に織田信長から摂津の支配権を得ていたので、この事件が問題にされることはなく、高山右近は高槻城主となり、芥川山城は廃城となった。」18)(p278)
 天正2年(1574)8月、「(日本布教長)フランシスコ・カブラル師(1529~1609年)は、都から豊後に戻るに先だって、都からルイス・フロイス師、ならびに、ロレンソとジョアン・デ・トルレス(両)日本人修道士を伴い、数日高槻城に滞在した。すなわち、(カブラル師)は、その地の城主(高槻城主)であり、かの諸城の領主であるジュスト右近殿に、改めて(キリシタンの)教理の説教を聞かせたく思ったからである。というのは、(右近殿)は幼少時にキリシタンとなったから、デウスのことについては、両親の信仰を(信仰として)生きているという以外何も知らなかったからである。」18)(p317)
 「ジュスト右近殿は、非常に活発で明晰な知性と、きわめて稀に見る天賦の才を有する若者(22歳)であった。今や彼は、異教徒に対してなされた教理説教や、一同から提出された疑問に対する(司祭たちの)答弁を絶えず傾聴したので、彼はデウスのことどもを好むことにおいても、またそれらを認識することにおいても、実に顕著な進歩を遂げ、その後は卓抜な説教者となり、またその大いなる得操によって都地方の全キリシタンの柱となるに至った。また彼はいとも多才、かつ能弁であったので、彼がデウスのことどもを語る際には、それを聴く者はすべて、家臣たちも見知らぬ異教徒たちもそれがため驚嘆したほどであった。」18)(p319)
 高山右近の信仰の決意は固く偶像崇拝に対する態度は徹底していた。その姿勢は天正10年(1582)10月15日大徳寺で行われた織田信長の葬儀参列の際に周知された。21)(p344)。
 「関白が(織田)信長の葬儀を営んだ折、(右近)が明らかに示したところであった。葬儀の場所に柩が搬入され、仏像の前に安置された時、そこには細かく刻んだ香を添えて香炉が置かれていた。(参列者)全員は、異教徒の習慣に従い、信長を主君として認める印として、おのおの仏を拝み、香をそれ(香炉)に投ずるのであった。
 同所には夥しい数の日本の武将たちが列席しており、(たまたま)右近は関白の近くに侍ることになった。関白が最初に儀式を済ませ、ついで武将全員に同じようにすることが命ぜられた。そのために右近はきわめて苦しい立場に立たされることになった。なぜならば偶像の前で行われるこの儀式に加われば、明らかに偶像を崇拝することになるし、それに与からなければ与からぬで、領地(のみか)おそらくは生命すら失うことになるからであった。
 彼は、こうした事態にあって、不撓不屈の勇気をもって、(その)儀式を行わぬことを決めた。そしてその理由を問われたならば、予はキリシタンであり、そのような忌むべき偶像崇拝は致しかねる、と答えるつもりであった。そしてそのために関白が領地を召し上げ、または死罪を命ずるならば、デウスへの愛ゆえに、それらをすべて甘受する覚悟であった。各人が儀式を行うために立ち上がって行き、彼だけが関白と並んで留まっていたにもかかわらず、我らの主なるデウスは、それについてだれも話さぬよう取り計らい給うた。それは、(彼らが)気付かなかったためなのか、あるいは彼はキリシタンであるから、そうしたことを行わぬことを知っていたためか(判らない)。右近殿は、こうしたデウスの聖なる執成しに、この上なく強化され、爾後はいかなる事態が起ころうとも、真のキリシタンであることを表明しようと、ますます鞏固な決意を固めるに至った。」
 高山右近は、しばしば、隠遁の境遇を求めたいと願ったが、領主の身分を維持してキリシタンの支柱となり五畿内のキリシタン宗団を守り通してゆく責任感を強くし、信仰がより堅くなるよう教育し、激励する立場が必要と考え率先した21)(p345)。

2)高山右近の茶の湯

 『天王寺屋會記』の記録から、織田信長は、政治的に重要な支配拠点とする摂津国主・荒木村重(有岡城主)に続いて、荒木村重の家臣・高槻城主・高山右近に茶の湯を許していた。高山右近は、荒木村重に茶の湯の手ほどきを受け、天正5年(1577)12月6日晩に千宗易と津田宗及に紹介された8)(p270)。
 高山右近は、利休の弟子として七人衆(利休七哲:蒲生氏郷(1556~1595)、高山右近、細川忠興(1563~1546)、芝山監物、瀬田掃部(1547~1595)、牧村長兵衛、古田織部)に数えられ、蒲生氏郷に次いで2番目に位置づけられていた4)。
 茶の仲間内でもよくデウスの話をし、特に蒲生氏郷と親しく説得を繰り返したため、ある時には快く思われず避けられる時もあったが、彼らは熱心に説教を聴くようになり、天正12年(1584)には牧村長兵衛が、翌天正13年(1585)には小西行長(アゴスチノ)、ついで蒲生氏郷(レオン)、黒田官兵衛(メシアン)、播磨国・三木城主が洗礼を受けた21)(p123、187)。
 高山右近の茶の湯には、興味ある逸話が伝えられている。「織田有楽(1547~1622)が、ある時の会でいろいろの四方山噺の末たまたま高山右近の話が出たので、高山右近の茶の湯には大病がある。所作も思い入れもよいが、清の病があって、真に清いことを知らない。路地のほとりは言うに及ばず、方々脇々の縁の下まで掃き清めて、掃除に際限もない。その世話の焼くこと、沙汰にきくさへ、いきどしく覚える。今の世にはこの高山の類病多し、といったといふのである。この話は古今茶話にも載っているが、清の病というのは、利休の言う『綺麗でさへいけない』とする、侘びの境地にまだ到達せぬことを言ったもので、この織田有楽の右近の潔癖を揶揄した短評は、非常に謹直な性質でキリシタンの十戒を恪守し、模範的な信者であったとする教会側の所述と思ひ合わせて、よく右近の人となりを語って、肯綮を得たものだとおもへる。」23)(p95)
 天正14年(1586)10月、高山右近はオルガンチーノ師から堺のキリシタンの柱と敬われていた日比屋了珪が身内のなかで起こった殺人事件により、かねがね堺において騒動を起こすものがあれば重罪とし、死罪に処し、家財を没収すると命じた関白秀吉の禁令に触れたため追い詰められている事実を知らされた。万策尽きてその救出策を相談された時、「たまたま(高山)ジュスト右近殿は、関白とその茶の湯の師匠宗易(千利休)を自邸に招(く機会)があった。この宗易は異教徒だがジュスト(右近)の親友であったので、両名は席上、かの無実の者たちのことで関白と話してみようと機会を窺った。そして(話題がその件に及び、彼らが)関白を(言葉をもって)ひどく追い詰めると、(関白)は、その話は止めろよ、その件についてはもう触れるな、と言うに至った。」21)(p239)
 関白秀吉は、関白夫人やその他多くの貴人たちからの嘆願にもかかわらず、財産や家屋の没収を免除する代わりに日比屋了珪や親族を破滅させるほど莫大な年貢を課した21)(p248)。
 「五畿内のキリシタンたちは、今回の事件により互いに大いなる愛情、また、深い信頼と多くの教化的規範を示しあうこととなった。大勢の人たちが援助に馳せ参じ、富める者は、ジュスト右近殿や(小西)アゴスチイノ弥九郎どのその他のキリシタン(武将)たちと同様に多くの喜捨を行ったので、彼ら相互の間においてのみならず、その愛と熱意は異教徒たちにも影響を及ぼすこととなった。」21)(p250)その故か、日比屋了珪の後世は不詳である。
 高山右近が本格的に茶の湯に没頭としたのは、天正15年(1587)6月19日、伴天連追放令により関白秀吉に改易、追放され、キリシタン洗礼に導いた小西アゴスチノ行長に小豆島領にかくまわれた後、豊臣秀長(1540~1591)の嘆願で天正16年(1588)に関白秀吉から五畿内を除いて日本国中どこに住んでもよいと許された機会に加賀藩・前田利家(1537~1599)に引き受けられてからであった。前田家では、茶匠・南坊(南之坊)として封禄を以って迎えられ、慶長19年(1614)徳川家康(1543~1616)の伴天連国外追放令によってフィリピン(マニラ)に亡命するまでの26年間、高山右近の生涯においてもっとも茶の湯に没頭した安穏の時期であった23)(p108)。
 高山右近は、「この芸道で日本における第一人者であり、そのように厚く尊敬されていて、この道に身を投じてその目的を真実に貫く者には、数寄が道徳と隠遁のために大きな助けとなるとわかった、とよくいっていたが、我々もそれを時折彼から聞いたのである。それ故、デウスにすがるために一つの肖像をかの小家(茶室)に置いて、そこに閉じこもったが、そこでは、彼の身につけていた習慣によって、デウスにすがるために落ち着いて隠退することができると語っていた。」3)(p638)

3)伴天連追放、改易(所領・地位没収)

 天正15年6月19日(1587年7月24日)夜、博多湾外のフスタ船でフロイスとともに眠りについていたコエリェ副管区長のもとに、突然、関白秀吉から伴天連追放令が届いた。その理由は、九州に来てみて以外にキリシタンの数が多くいことに驚き、しかも彼らキリシタンは神々の国である日本の神社仏閣を破壊し、キリシタンの教理で結ばれた絆は幅広く、非常に強い。天下の支配者としてなすがままにしておいては、日本の宗教とその教えは失われてしまう。従って、商取引のためを除いては伴天連は20日以内に帰国すべし、ということであった。当時、高山右近は、千名に近い家臣を率いて島津征伐のため九州に参戦していた21)(p321)。
 それに先立って、関白は高山右近のもとに使者を派遣して「予はキリシタンの教えが、日本において身分ある武士や武将たちの間で弘まっているが、それは右近が彼らを説得していることに基づくことを承知している。予はそれを不快に思う。なぜならば、キリシタンどもの間には血を分けた兄弟以上の団結が見られ、天下に累を及ぼすに至ることが案ぜられるからである。同じく予は、右近が(先には)高槻の者を、そして今は明石の者をキリシタンとなし、寺社仏閣を破壊せしめたことを承知している。それらの所業はすべて大いなる悪事である。よって、もし今後とも、汝の(武将としての)身分に留まりたければ、ただちにキリシタンたることを断念せよ」と。
 これに対して右近は、臆することなく以下のように答えた。
 「私が殿を侮辱した覚えは全くなく、高槻の家来や明石の家臣たちをキリシタンにしたのは私の手柄である。キリシタンをやめることに関しては、たとえ全世界を与えられようとも致さぬし、自分の(霊魂の)救済と引き替えることはしない。よって私の身柄、領地については、殿が気に召すように取り計らわれたい」と。
 高山右近のあまりにも自由で断固とした返事を聞き、折から幾人かの彼ときわめて親しい異教徒の重立った人々が訪れ、これまでに培ってきた領地と地位を失うのを見るに絶えないと心を痛め、たとえ胸中はいかようにキリシタンであっても、返事を少し和らげ、せめて関白となんらかの折り合いがつくよう口上してはと、数々助言した。
 「だが右近殿は固く決意して、デウスのこと、およびその教えに関する限りは一点たりとも変えるわけには参らぬ、と彼らに言った。そして伝言を携えて来た関白の家臣たちに向っては、初めに申した返答を(関白殿に)伝えられよ、それ以外の答えを申してはならぬ、と今一度繰り返し、彼らを帰らせた。」21)(p337)
 翌早朝、高山右近は家臣や武将を呼び集め、次のように話した。
 「汝らは今日まで今度の事件の経過を眺めて来た。我が身に関する限り、予はそれをいささかも遺憾に思わぬのみか、己が信仰を表明でき、また我らの主なるデウスの名誉と栄光のために多年待ち望んでいた苦しみを味わえる機会が与えられたことを非常に喜んでいる。
 だがこの際ただ一つ気がかりなのは汝らのことである。すなわち汝らは予とともに天下の主(関白殿)に仕えようとして、いとも大いなる危険に身命を捧げて予に尽くしてくれた。汝らは(戦場において)勇気を示し、(それによって)少なからぬ名声と栄誉を獲得された。(予が遺憾に思うのは)今、それに対して報いることができぬことである。だが、予手ずから汝らに恩返しができぬ以上、予はそれを全能なるデウスの強力にして偉大な御手に委ねる(ほかはない)。なぜなら汝らはキリシタンであり、その教えをわきまえていることゆえ、デウスはこの世においては、汝らが目下の迫害のため世俗的な財にこと欠くに至らしめ(ても)、来世においては現世における苦労の報いとして無現の栄光と財宝を汝らに与え給うことであろう。
 ここに改めて(汝らに)乞い、汝らに対する愛情から篤と願いたいのは、(爾今、汝らが)勇気をもって信仰に踏み留まり、自ら範を垂れ、良きキリシタンとして生きることであり、(予はそれを)期待している。事態が(いまさら)改まる気配とてはないことだから、(予は)心ならずも、汝らが妻子や家族のため、生活の糧と保護を容易に求められるところに赴かれるがよい(と言わざるを得ない)。予の友人である天下の武将たちの中には、予に対する好意から、汝らを喜んで召抱え、自領において汝らに相応しい封禄を付与してくれる人たちは決して少なくはない(と思える)からである、と。」21)(p340)
 「彼(高山右近)はしばしば、俗世を離れ、ひたすら己が霊魂のことを考えて過せるよう、隠退し静寂な(境遇)を得たい、と述べていた。だが彼は他方、この問題を熟考すると、(領主の)身分を維持している方が、我らの主に役立つようにも思われた。けだし目下のところ、キリシタン宗団は、都地方においては、(右近)以外に人間的には保護者を有していなかったのであり、受洗した貴人たちは、まだ信仰には日も浅く馴染んでいなかったから、彼らを助け、彼らがより(信仰が)強く堅くなるよう、教育し、激励する人物が必要であった。」21)(p346)
 天正16年(1588)、高山右近は、その後、加賀藩・前田利家に引き取られ、天正18年(1590年)春の北条氏追討に際し、「主君(前田利家)とともに出陣して大いなる軍功を収めた。関白はそれを聞くに及んで満足したが、元どおり(大名の地位に)復帰させること、家臣として取りたてることもないと公言した。しかるに、関白の許である日話題が(高山)ジュスト右近殿のことに及ぶと、右近に逢い快く彼を迎えたいから(と言って)、彼に下(九州)に行くように命じ、そこで引見すると期待させた。
 そして(老関白は)名護屋に二ヶ月近く滞在した後、彼(右近)を引見し、面前に出頭することを許したが、それは日本では和解の印であり慣習に基づくやり方であった。(老)関白は彼を見ると優しく言葉をかけ、久しく汝に逢わなかったが、定めて窮乏の生活を余儀なくさせられたことであろうと言った。そしてその二日後〔文禄元年(1592)12月26日〕には、特に位が高くかつ親しい貴人以外には迎え入れることのない茶の湯(茶室)に彼を招いた。(その際)彼(関白)は(右近と)ともに羽柴筑前守殿(前田利家)ならびに諸人からきわめて尊敬されている重立った人を招待した。今では彼(右近)はどこでも自由に滞在し、(老)関白の前にも出頭し、友人にも自由に交際することができるようになった。」19)(167)

 

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