先日、二年生のクラスで学生から面白い質問を受けた。習い事の「茶道、華道、書道」から伝統スポーツの「柔道、剣道、合気道」まで、なぜ「道」がついているのか、と言うのである。私は北海「道」生まれですけどね、と先ずは駄洒落で受けたが、さて、どう答えようか。
それにしても不思議なタイミングだった。その直前の一年生のクラスで漢字の「道」の怖さを教えたところだったのだから。毎年のことだが「怖い漢字」に出会うとクラスがその都度盛り上がる。「道」はその代表的な例なのだ。なお、怖い漢字については「白川静さんに学ぶ漢字は怖い」(小山鉄郎著、共同通信社2007年)という長いタイトルの本があって、今、なかなかの評判だ。その姉妹篇とも言える「白川静さんに学ぶ漢字は楽しい」(2006年)と並んで大層面白い。勿論、白川さんも怖い漢字の例として「道」を挙げている。
部首のシンニョウは、「辻、通、近、遠」などの様に「人の行く道」を意味する。それと「首」で出来た会意文字が「道」だが、さてどこが怖いのか。「道」に「首」が含まれている理由を白川さんは上記の本の中でこう説明している。「道は、邪悪なものが潜んでいる非常に危険な場所ゆえに、異族の首を刎ねて持ち、その首の呪力によって、道に潜む邪悪な霊を祓いながら進んでいったからです」
血の滴る首を手に持って道を祓う姿、これは相当に怖い。面白いことに、和語の「みち」にもこの「道に潜む邪悪な霊」の意味が示されていた可能性がある。「帝(みかど)」の本来の意味は「御門」であり、「宮(みや)」も「御屋」だったように、「道(みち)」の「み」も「御」であったとされるのが通説だ。常識的に考えると「み」に続く「ち」は先ず「地」であり「路」であったろうが、もしかすると「雷(いかづち)」や「大蛇(おろち)」の「ち」であったかも知れず、そうなると「霊(ち)」や「血(ち)」の領域にも入ってくるのである。
初級クラスで教える漢字だが字源がなかなか怖いものをもう一つだけご紹介しよう。それは「取」である。右側の「又」は「何かを取ろうとして伸ばした手」で、その先に何があるかというと「耳」だ。古代中国の戦争で、敵を殺した証拠に、死体の耳に手を伸ばして、それを切り「取」ったのだ。敵の大将なら首実検というのがあるから「首級」を持って行かねばならないが、単なる兵士なら「質より量」、多くの耳を集めて指揮官の陣営に持って行く。それは言うまでもなくご褒美を頂戴するためである。集めた耳の数が多ければ恩賞も増えた。
とは言え、それは中国だけの話ではない。思い出すのは、京都市東山区の豊国廟の前にある「耳塚」である。秀吉の、二度にわたる常軌を逸した朝鮮侵略戦争、いわゆる文禄(1592-93)慶長の役(1597-98)で、敵の死体から切り取った夥しい数の耳(一部は鼻)が塩漬けにして秀吉の検分に供されたとされる。その後で、流石に寝覚めが悪いと思ったか、埋めて供養したのが「耳塚」だ。字源も怖いが、それよりも身近に史実があるのはさらに怖い。
さて、冒頭の学生の質問に戻ろう。「茶道、華道、書道」にせよ、「柔道、剣道、合気道」にせよ、日本人は習いごとに「道を歩む」イメージを持っている。それは決して到達するとこのない道であり、こつこつ、「一歩一歩」「地道」に、習得に勤しむのだ。道を極めた人を「達人」と言うが、そう呼ばれる人間国宝のような人でも「いえいえ、まだ修行中でございます」などと謙遜する。それが品格というものである。
「習う、慣れる、並ぶ、成る」などの動詞もそのことを裏付けている。例外なく「nar-」を持つこれらの動詞は、ある目標に向かって、一歩一歩近づくという意味で共通している。自分の立ち位置を、その目標に少しでも近づける、つまり「並ぼう」とする努力が「習う・倣う」ことで、それは次第に「慣れる」ことでもあったし、その目標に近づくことは、自分が自分であり続けながら同時に他のものに「成る」ことでもあった。江戸時代に書かれたものを読むと、どこかに旅をしていて、ある場所に着くことも「なる」と言っている。「三日あまりして、早や大坂になりにけり」と言った風だ。殿様がお出ましになることも「お成〜り〜」と知らされたように。
こういう話をすると「茶道、華道、書道」や「柔道、剣道、合気道」が何故「道」なのかを学生もよく分かってくれた。最後に、「皆さんの日本語の勉強だって道なんですよ。『日本語道』、道のりは長いですが、そこに楽しみもあります。一歩一歩、邁進してください」と言ってその日の授業を終わった。 (2009年2月)
応援のクリック、よろしくお願いいたします。

それにしても不思議なタイミングだった。その直前の一年生のクラスで漢字の「道」の怖さを教えたところだったのだから。毎年のことだが「怖い漢字」に出会うとクラスがその都度盛り上がる。「道」はその代表的な例なのだ。なお、怖い漢字については「白川静さんに学ぶ漢字は怖い」(小山鉄郎著、共同通信社2007年)という長いタイトルの本があって、今、なかなかの評判だ。その姉妹篇とも言える「白川静さんに学ぶ漢字は楽しい」(2006年)と並んで大層面白い。勿論、白川さんも怖い漢字の例として「道」を挙げている。
部首のシンニョウは、「辻、通、近、遠」などの様に「人の行く道」を意味する。それと「首」で出来た会意文字が「道」だが、さてどこが怖いのか。「道」に「首」が含まれている理由を白川さんは上記の本の中でこう説明している。「道は、邪悪なものが潜んでいる非常に危険な場所ゆえに、異族の首を刎ねて持ち、その首の呪力によって、道に潜む邪悪な霊を祓いながら進んでいったからです」
血の滴る首を手に持って道を祓う姿、これは相当に怖い。面白いことに、和語の「みち」にもこの「道に潜む邪悪な霊」の意味が示されていた可能性がある。「帝(みかど)」の本来の意味は「御門」であり、「宮(みや)」も「御屋」だったように、「道(みち)」の「み」も「御」であったとされるのが通説だ。常識的に考えると「み」に続く「ち」は先ず「地」であり「路」であったろうが、もしかすると「雷(いかづち)」や「大蛇(おろち)」の「ち」であったかも知れず、そうなると「霊(ち)」や「血(ち)」の領域にも入ってくるのである。
初級クラスで教える漢字だが字源がなかなか怖いものをもう一つだけご紹介しよう。それは「取」である。右側の「又」は「何かを取ろうとして伸ばした手」で、その先に何があるかというと「耳」だ。古代中国の戦争で、敵を殺した証拠に、死体の耳に手を伸ばして、それを切り「取」ったのだ。敵の大将なら首実検というのがあるから「首級」を持って行かねばならないが、単なる兵士なら「質より量」、多くの耳を集めて指揮官の陣営に持って行く。それは言うまでもなくご褒美を頂戴するためである。集めた耳の数が多ければ恩賞も増えた。
とは言え、それは中国だけの話ではない。思い出すのは、京都市東山区の豊国廟の前にある「耳塚」である。秀吉の、二度にわたる常軌を逸した朝鮮侵略戦争、いわゆる文禄(1592-93)慶長の役(1597-98)で、敵の死体から切り取った夥しい数の耳(一部は鼻)が塩漬けにして秀吉の検分に供されたとされる。その後で、流石に寝覚めが悪いと思ったか、埋めて供養したのが「耳塚」だ。字源も怖いが、それよりも身近に史実があるのはさらに怖い。
さて、冒頭の学生の質問に戻ろう。「茶道、華道、書道」にせよ、「柔道、剣道、合気道」にせよ、日本人は習いごとに「道を歩む」イメージを持っている。それは決して到達するとこのない道であり、こつこつ、「一歩一歩」「地道」に、習得に勤しむのだ。道を極めた人を「達人」と言うが、そう呼ばれる人間国宝のような人でも「いえいえ、まだ修行中でございます」などと謙遜する。それが品格というものである。
「習う、慣れる、並ぶ、成る」などの動詞もそのことを裏付けている。例外なく「nar-」を持つこれらの動詞は、ある目標に向かって、一歩一歩近づくという意味で共通している。自分の立ち位置を、その目標に少しでも近づける、つまり「並ぼう」とする努力が「習う・倣う」ことで、それは次第に「慣れる」ことでもあったし、その目標に近づくことは、自分が自分であり続けながら同時に他のものに「成る」ことでもあった。江戸時代に書かれたものを読むと、どこかに旅をしていて、ある場所に着くことも「なる」と言っている。「三日あまりして、早や大坂になりにけり」と言った風だ。殿様がお出ましになることも「お成〜り〜」と知らされたように。
こういう話をすると「茶道、華道、書道」や「柔道、剣道、合気道」が何故「道」なのかを学生もよく分かってくれた。最後に、「皆さんの日本語の勉強だって道なんですよ。『日本語道』、道のりは長いですが、そこに楽しみもあります。一歩一歩、邁進してください」と言ってその日の授業を終わった。 (2009年2月)
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というのは うーむ、そうだったんですか。
そんなふうに、体系的に、やまとことばの語源 を 認知言語学的に解説してくれている良書って ありませんでしょうか。
崎・先・岬・酒・咲く・裂くなどはもともと同根という説なども どこかで聞いたことがあります。
植物と身体部位の語源のお話などともかさなりますね。なにか こういう話はうさんくさく見られているらしいのが不思議です。メタファーを重視しているらしい認知言語学では ちゃんと扱ってくれそうな気がするんですが。
http://blog.goo.ne.jp/shugohairanai/e/5c82126b9aba61cf5adf712693bbc7fb
全ては繋がっているんですよね。お話の「崎・先・岬・酒・咲く・裂く」などもその好例でしょう。
科学(science)ってのはそもそも「切る」(scire)が語源で、それが「知る」意味になったと聞いていますから。科学万能主義で、人間は決して幸福になれないと思います。
東京在住のShinと申します。
こちらは、チエ蔵さんがサイト全般を管理され、
コメントを金谷先生が掲載されていらっしゃるのですね。
実は、金谷先生に仕事の件で、直接ご連絡申し上げたいのですが、
直接のアドレスが見当たりませんでした。
ご多忙とは存じますが、下記:アドレスまでご連絡いただけますでしょうか。
どうぞよろしくお願いいたします。
mashxone@yahoo.co.jp
前田
2009.6.10
私がチエ蔵さんにエッセーを送り、ここに掲載して頂いてます。
私自身はロウテクで、Blogのことなどよく分からないものですから。
メール差し上げました。